2007年09月09日

空の舟

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写真はラファエル・ヴィニオリの手による建築物、あるいは又、舟に魅せられた建築家のモニュメントと言うべきか・・・しかし、この巨大構造物がやがては無惨な澪標となるだろう、と書き留めたら彼はなんと言うだろうか・・・

都庁が新宿へ移転した跡地に国際コンペによって東京国際フォーラムが建てられたのは1996年5月、都心の高層ビルが乱立する谷間に何故このようなランドマークが建てられたかのは理解に苦しむところだ。

黄昏に浮かぶ舟、この写真を撮影したのは2001年だから竣工して5年目のことだ、このとき既に中空に浮かぶ巨大な船体は唯一このカメラアングルからしか全体の姿を眺めることが出来なかった。

グーグルアースで確認したところ、幸いにして2007年9月現在も同じ風景である(らしい)が、目の前の空間に高層ビルが建てられることは時間の問題。やがては地上から「空の舟」の全体を見渡せる場所はなくなり、ビルの谷間に埋もれた無惨な竜骨と化してしまう。堆積物に閉じ込められた魚の化石。

遠く離れて仰ぎ見る「空の舟」をイメージした建築家の狙い(と、ぼくが勝手に想像しているのだけれど・・・)は打ち砕かれてしまうのである。

この建物は、小高い丘の上の周囲に視界をさえぎるものがないような場所に造られてこそ意味がある。だがしかし、現実は非個性的なビルが立ち並ぶ谷間に埋もれて漂う箱舟のように見える。

この場所に場違いな構造物を建てた関係者の愚かさを嘆けばいいのだろうか・・・何故この様なことになったのだろうか。こうなることをヴィニオリは知っていたのだろうか・・・

もののかたちには明確な意思がある。この建築家のコンセプトがいかなるものであれ、彼の手を離れて立ちすくんでいる巨大構造物が放つメッセージは悲痛だ。

・・・どうするつもり・・・

さて、このところはあまりの暑さで作業が捗らず、まだ帆船の姿は見えてこない。暑さに負けて昼間はエアコンの効いた部屋でデジタル写真の整理などをしていて、「空の舟」の一枚に眼が止まり自分の舟に「空の舟」を重ねている。

白露の節季だというのに連日30度を越す瀬戸内。8月末に帆桁の艤装も準備が整い、組み上げた帆を調整するための仮設帆柱も設置した、もう少し気温が下がったら帆を風にはらませようと考えているこの頃だ。

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2007年07月31日

明けても暮れても帆のことばかり。

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写真は、帆船ひなの進水式が終わり造船所のある伯方島から艇庫のある鵜島へ回航し、浜に曳き揚げている時に撮影したもの。「ひな」にとっては最初の揚陸である。

白いロープの先には10余人の人間と4枚の滑車があり、「ひな」を牽引している。力を込めて砂浜を曳いたのだが、船底とレールの間に砂が噛んでしまい重くて難儀した。見かねた島の人々が驟雨の中ずぶ濡れになって手伝ってくれて、ようやくのこと庭先へ曳き揚げた。

その昔、木造船は毎日漁を終えたら巻き揚げ機などで曳き揚げられた。船底に海藻や貝などが付着しないようにするためと、海水温が高い夏の間にはフナムシが船底に卵を産み付け孵化すると、木質を食い荒らし高価な舟に穴を開けてしまうからだ。

木造船の時代は一月に一度ほどは舟を船台に上げ、船底を杉葉のたき火で燻し船虫退治をした、これを「たでる」と言う。当時は船底塗料などのない時代だから手間が掛かることおびただしいものだった。

しかし、手間が掛かる分木造船は塩水のために腐敗しにくく、百年以上も使えたと言われる。安芸の宮島は厳島神社が四百年も水中に立っていることを思えば、海水と木の相性の良いことがお判り頂けるでしょう。

木造船の船体はこのように世紀を超えて残るが、反面、帆布や帆桁などの艤装は風化してしまい余り残らない、帆や麻縄は潮風でぼろぼろになり消えてなくなる・・・往事のものは博物館でも収拾できていないのである。そのようなことだから、帆を再現するのはえらいことだ・・・

ジェット旅客機は胴体や翼や内装を作るエアフレームメーカーと推進力を担当するエンジンメーカーとの合作で作られている。ジェット機とぼくの7メートルばかりの木造船とを比喩するのも少し気後れするけれど、帆船も船体部分とエンジン=帆とが別々に作られる。

明治時代の1枚縦帆を再現しようとしているのだが、小型のものになってしまうとほとんど資料がないと思った方が賢明であり、古い写真とか絵に描かれた船影とかを頼りにするしかない。どうすればいいのだろうね。

船影と言えば、四国の金比羅様は全国の船主が御新造船の航海無事を祈願して習い模型や絵馬を奉納することではつとに有名だが、いかんせんそこにも小型帆船の絵馬などはほとんどないない・・・

帆は櫓と同じに「揚力」を推進力に変換するエンジンである。もっとも、真艫(マトモ、すなわち舟の進行方向に吹く順風のこと)の時は櫂と同じで揚力でなく抵抗力を推進力に換えるのだけれども、抵抗力はエネルギー変換効率が極めて悪い、力学としては余り美しくない・・・

帆に魅せられるのは、エネルギーの変換がスマートだからかも知れない。風上へ切り上がりながら進むなどと言う芸当は揚力ならではの力学だからだ。このへんのところはヨット乗りとかでないと実感できないだろうなあ、揚力には得も言えぬインテリジェンスがあるんだよね。

その昔の揚力エンジンの代表選手と言えば中国沿海州を走り回った「ジャンク」だろう、大航海時代の横帆を幾重にも揚げた西洋の大型帆船も揚力やら抵抗力やらオールやらで進んだものだが、ジャンクは帆と櫓とで航海したのだろう、多分。その姿を想像するだに美しい・・・

次に生まれてくるときは、沿海州は上海あたりに拠点を置くシナの海賊船頭で生まれてきたいものだ!ジョニーディップ扮するパイカレ船長のような人生も悪くはないけれど、ジャンクの美しさにはカナワナイだろうとも。

ああ何故、帆走には奥深いロマンがあるのだろうね。とまあ、帆のことばかり考えていてブログもおろそかになり、困ったもんだ。八月にはいよいよ微風時に帆を揚げて試験をする、どうなることやらだなあ・・・何かとりとめもないね、このところは・・・

ここから先は、8月3日に書く

ことしは台風4号も5号も瀬戸内を脅かしたが、いまのところは我が瀬戸内和船工房も舟宿「ひな」も無傷だ。4号の時に裏山の土石が1トンほど崩れ落ちたが、予め土手を積み上げておいたので計算通り土塁が土石を受け止めて事なきを得た。

5号の時には、深夜の満潮時に台風がシンクロして高潮になったが、16mmのロープで係留した浮きデッキが船小屋を直撃することもなかった。まあ、そのうちに裏山がでっかく崩れたり、大波が船小屋を直撃することもあるやも知れん・・・どでかい地震だって今夜来るかも知れん。そう、なるようになるのさ。
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2007年06月13日

うれしいこと二題

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指折り数えれば、昨年7月末に着手してから10ヶ月目の5月末、皐月大安大潮の早朝に「ひな」は舟降ろしされた。長さ7メートル、幅2メートル、重量1200キロの二丁櫓である。

舟のかたちは、その昔瀬戸内海郷に名を馳せた村上水軍の戦闘艇、小早舟である。船首部分が方丈の甲板で、ここに弓を引く強者が立つ。「ひな」には真後ろの「取り舵櫓」と進行方向右側の「面舵櫓」が艤装されている。

余談ながら、この舟は自らの左舷を敵側の舷側に打ち当て切り込んでゆく時に強さを発揮する、何故なら左舷には櫓が装備されていないから船足は落ちずに自由に操舵できるからである。すなわち、「ひな」の弱点は右舷である。まあ、いきなり弱点の話しもいけませんね。

船体のどの部分を見ても、直線や平面はほとんど無い、水に浮かぶかたちが求めた合理性は流線型である、ぼくはいままでにこのように美しい舟を見たことがあるだろうか・・・

これから帆の艤装を始める。帆はぼくが設計して造る番だ、名工船大工棟梁渡邊忠一が精魂を傾け作事した晩年の名作「ひな」の船体に何ら遜色ない帆を上げなければ、自称「船頭松」の名が廃るというもの。

うれしさと緊張感が入り交じり久しぶりに気分が良く充実している。

うれしいことをもう一つ、瀬戸内の孤島が最大4MBの速度で世界と繋がった。やったぜ!対岸の島で親機をADSLにブリッジ接続し小さなアンテナでデータを洋上直線距離1.2キロを送る、こちらでは同じ構成の子機を設置しお互いに電波を受発信する。

最初のうちは殆んど繋がらなかったのだが、ある日親機のIPアドレスが確認できて、子機からリモートで親機をコントロールできるようになった。マシンは学習するのだろうか?日増しに速度が向上して繋がる時間も増大してきた。今では常時3MB程度で接続されている。

おかしなもので、インターネットが繋がったときからまた不健康な深夜生活が始まってしまった。このようなことでは帆船「ひな」はいつまでたっても完成しない。

ネットの無い日々はわずか2ヶ月足らずだった、早寝早起きしてよく体を動かし日に焼けて少しスリムになり、夜は本を読んで静かに暮らした。そんな日々がもう懐かしくなっている・・・もしかして、ネットが無い方がよいのかもしれない・・・なんて、余裕ですね。

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2007年05月16日

帆船浪漫

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一枚のセピア色の写真、恐らく大正か昭和初期のものではないかと思われる。瀬戸内海は潮待ち港「鞆の浦」、うたせ舟の帆を上げて乾かしているのだろうか・・・帆に風が入っていないので夕凪の時刻だろう。未だ木造の漁船にエンジンが搭載されていない時代の貴重な写真だ。

このうたせ舟のことを地元の人は「アイチケン」と呼んだらしい、船大工が大型の万力を「エゲレス」と言ったように、ものの名前はそれが何処から来たかを直裁することがある。鞆の浦海域のうたせ舟は愛知県の三河湾辺りから到来した船体と漁法と思われる。

帆船と言っても、うたせ舟の場合は底引き網を曳く為に帆を上げるので厳密な意味で帆船ではない、しかし、追い手(追い風)の時に縮帆(帆を下げて小さくする)して「帆待ち稼ぎ」する程度に帆は使われたと筈である。

「ホマチ稼ぎ」とはここから来ているのだ、すなわち、順風で櫓槽することなく船を進めるということに由来する。余談ながら、順風満帆ではない、うたせ舟のようななりの大きい帆を満帆にして風の強いときに追い風状態で帆走したら水押(ミヨシ、船首のこと)から沈んでしまうのではないだろうか。

さて、写真の舞台となった鞆の浦である。瀬戸内海は東西長い、西方は豊後水道から潮が満ちてくる、東方は明石海峡と鳴門海峡だ。西と東から満ちてくる潮は鞆の浦海域で落ち合うのでその辺りは潮の流れが無い、満ち潮でも引き潮でも潮流はほとんど無いのである。

下関から大阪湾への航路は、上げ潮を捉まえれば鞆の浦まで流れに船をまかせて行ける。鞆の浦からは今度は下げ潮に乗り明石海峡を通り大阪湾へ出るのが省エネ航法である。すなわち潮の満ち干を利用して潮流を川に見立てて川下りの要領で船を進める。上げ下げの潮の分かれ目が鞆の浦で、そこで潮待ちをすることになった。

そうなんです、潮待ち港「鞆の浦」は古事記や日本書紀にも登場する黎明期の文明の交差路のような土地柄なのです。

話しはワープ!

信じられないことだが、この歴史的に意義のある鞆の浦の文化遺産である港や町並みを埋め立てて架橋するという蛮行が地元自治体レベルで敢行されようとしている。ただただ呆れるばかりだ、この国の行政府の人間はいったい何を考えているのだろうか・・・

NPO鞆まちづくり工房 のメンバーは世界遺産クラスの歴史保存のために活動を広げている。およばずながらぼくもメンバーの一人だが、せめてこのブログを通じて広く世の中にこの愚行を知って貰い、破壊活動がストップされることを願ってやまない。

この問題は、有志が地方自治体を提訴するというかたちで推移している、こちらも併せてご覧じろ。





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2007年05月10日

孤島の通信インフラ

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舟宿「ひな」の建築と帆船「ひな」の造船とに追われて、瞬く間に時が過ぎてしまいました。なんと3ヶ月目のブログは、インターネット通信システム設置・接続状況のリポートからです。

既述したように鵜島ではADSLやISDNは使えないので、最初にADSLが利用できる大島に電話を設置してADSLを使えるようにする、場所は鵜島の舟宿「ひな」が一望できる大島宮窪町の古民家だ。この場でのADSL接続をプライベートな無線LANで直線距離1.2キロを結ぶという計画である。

大島の古民家と鵜島の舟宿との間には遮るものは何もない、能島の潮流が干満の間に音を立てて流れているだけである。親機と子機のLANケーブルの先に無線の受発信装置を付けてデータを「飛ばす」のである。

この様なシステムを構築するにはいささかノウハウが必要なので、東京でビルドして屋内での接続試験も確認し、装置一式を鵜島に送った。現地へ行き大島に親機をセットしアンテナを鵜島の舟宿に向けて取り付け、次にフェリーで鵜島に渡り、舟宿側に子機をセットし受信アンテナを大島の古民家の方向に向け取り付けた。

果たして、インターネット接続は未だ成功していない。原因を突き止めようにもフェリーが1日7便では、1日に1回の受送信試験するのが精一杯である。あれやこれやと一週間ほど接続テストしているうちに、どうやら無線LANのマシンが故障していることが判明した。なんのことはない機器の初期不良でり、これでは繋がるはずがない、膨大な時間と費用を掛けた結果がコレである。

もうウンザリ!そうこうしているうちに連休に入ってしまい休み明けに初期不良の無線LAN装置を送ることにした、なるほど、連休というのは日本列島全体が孤島になることなんだ。それはともかく、なあにイザとなったら音声モデムでナントカするさ、と思っていたのがチト甘かった。なんとまあ!音声モデムも使えないことが判明した。

NTTはいったいどういうつもりなのだろうか、島に土地を買ったときに尋ねたところが、当該の住所はADSLを利用できます、と言うことであった。しかしその後電話を設置してADSL契約を申し込んだときに、接続出来るか否か調査しますとのことで、その結果、ADSLはダメですがISDNは問題ないと言うことであった。それでは次にISDNを申し込んだら、再び調査すると言って、ISDNはダメですが音声モデムはOKですという。

ところが、今度は大島と鵜島の間は海底ケーブルではなく「ワイド無線」なのでモデムも使えませんということだ!いったいどうしてこうなっちゃうのだろう・・・ついでに書くけれど、鵜島では一般電話も3〜4回に1回ぐらいの割合で雑音が非道くて聞き取れないことがある、急ぐときには仕方がないからDoCoMoのなかなか通じない携帯電話を使ったりしなければならない、雑音もワイド無線が原因ですとのことだ!だったらせめて満足な電話が出来るレベルにそれを改善してくれ!

まあね、NTTだからこの様なこともあろうかと思い、いざというときにこちらがキレないように、この3月末に東京へ戻った時に20年以上使い続けてきたDoCoMoにサヨナラし良く繋がるauに乗り換えて、EZWebやPCメールを携帯電話のWeb接続で読み書きできるように先手を打って置いたのだ、この判断は我ながらアッパレだと思う。

面白いことに、au携帯インターネット接続でコミュニケーションするようになってから、PCの前に座っている時間がもの凄く短くなった。ブロードバンドが未接続の結果、マシンの前に長時間座ることがなくなり、少し大袈裟だが新しい世界が見えてきたような気がしている。

ぼくはまもなく還暦を迎えようと言うときに、ようやくのこと「ネットオタク」から脱皮して本物の「船頭」になりそうである。なんか話しがワープしたけど、以上が接続状況の中間報告です。

次に舟宿「ひな」のことと。知人の多くはぼくが瀬戸内で民宿でもはじめるとおもっているみたいだ、無理もないことだろうと思う。御宿「かわせみ」とか舟宿「ひな」とかの語感からは粋な姉さんとかお内儀がのれん越しにヒョイと現れそうだからね。

しかしそうではない、舟宿「ひな」は和船の艇庫と工房が一緒になった施設ようなものと思えばよい。そのようなことなので、当然のことながら「宿泊予約」などは受け付けていない。

瀬戸内和船工房にせよ、鵜島一丁櫓競漕大海にせよ、舟宿「ひな」にせよ、「船頭・ひな組」にせよ、すべて趣味の世界と言おうか、「和船ごっこ」と言おうか、単なる舟遊びなのである。

しかし、半端な遊びをするつもりはなく、今度はお仲間達と「瀬戸内和船同好会」という倶楽部を設立することになった。帆船「ひな」を出航させるためには数人の手練れがいなければ「和船体験」が出来ないからで、そのためには和船愛好家が集まって力を合わせなければ舟遊びすることが出来ない。

さて、帆船「ひな」のことです。進水式は5月30日と決まり船体は最後の艤装に入っている、進水の後は鵜島の舟宿に曳航されいよいよ帆柱と帆の艤装が始まる。この船体は暫く、復元力試験のために帆柱の先端にロープを付けて引き倒してみたりしながら帆の面積を計算したり、二丁櫓で能島の潮流を横切ってみたり、滑ったり転んだりしなければ、往事の帆船は再現できない。

帆船の古い写真や舟の博物館に残された資料などを元にしながら、船体構造を再現しその上に帆を艤装する、と言葉にすれば簡単なのだが、トコトンやるとなればそりゃもう大変でこれから先は体力勝負かなあと思っている今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしたか・・・

瀬戸の船頭@東京にて

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2007年02月28日

孤島とインターネット

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「島には電話がある」との話だったので、それならADSLは問題無く使えると思っていた、がしかしそれは甘かった。瀬戸内の離れ小島のひとつ「鵜島」の人口は40人足らず、この夏還暦を迎えるぼくが一番若いのだから、日本列島の地方問題典型の高齢と過疎の島である。

島はこのままではやがて廃村になる、日本でも無人島になった島は結構ある。NTTもやがては廃れ行く離れ小島にADSLのサービスを行う計画はないらしい。市場経済が生み出した地方切り捨ての先端、良く考えてみれば孤島に都会と同じ情報インフラがあろう筈がない、尤もそれじゃ困るのだけれど。

ISDNも無くモデムによるデータ通信だけだ、ああなんて言うことだ・・・。離れ小島に棲み不自由になる覚悟は出来ているのに、ブロードバンドインターネットが保証されないと判明した途端に、世の中から取り残されるような恐怖とストレスが高まった、この哀れなやつがれをお笑い下さい。

不思議なことに、コンビニとか自販機とかレストランとか居酒屋とかが無くても何とかなるさ、と思えるのだけれど、電話やインターネットなどが無かったら「どうしよう」と考え込んでしまうのことには、自分にも説明が出来ない。

恐らく、我慢してインターネットの無い世界を受け入れてしまえば、嘗て喫煙から離脱したように、どうしてあんなものに囚われていたのだろうと、振り返って思うことが出来るだろう・・・多分。

そう考えたときに、なにゆえ鵜島が日本の社会から切り捨てられつつあるのかと言うことが、逆説的に理解できたような気がした。すなわち、コミュニケーションインフラの不在が過疎化を推し進めた・・・のではなかろうか、と推理するに至ったのである。

しからば、鵜島にブロードバンドを実現すれば、過疎化は回避できるかも知れない。過疎は一極集中が生み出した数々の現象のひとつに他ならず、ネットワーク社会が多極社会を生み出す、過疎の村にブロードバンドを整備すればネットワーク社会を構成する一極を担うことが出来てその結果、過疎は回避される可能性がある、と瀬戸の船頭は考えるわけだ。

NTTがブロードバンドサービスを行わないなら、自家設備で実現するより他に手はない、と瀬戸の船頭は考えるわけだ。

この稿まだまだ続く



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2007年01月29日

また、木の話

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土佐は高温多湿、降水量も全国トップクラス。昨年9月以来延べ6日間滞在したが、そのうち4日間は雨に見舞われた。この雨が豊かな山林を造りだす、四国太平洋側の多雨多林エリアで育まれた材木は高知の木材市場へ届けられる。このところ木材市場へ素材を買い出しに行くのが楽しみ。

市場では様々な表情の木に出会う。板や柱にまで加工されているが、やはり木目が見える大きい板が見ていて面白い。さて、目下船小屋を建築中で屋根・床・壁などが出来上がってくると今度は内装、そのようなわけで素材を探している。

いろいろな木目の表情を見ていると想像力が刺激されて、内装プランがあるから素材を探すのではなくあべこべに、美しい木の個性がありそれを活かすための内装プランを考えるようになってしまう。まあそれもまた楽しいではないか。

「適材適所」の由来を旧知の西陣織当代は、「機(はた・織機)」が適材適所という言葉を生んだと言う。確かに、昔の織機は歯車に至るまで木製で、重くて固い木質、しなってもおれない弾力性のある木質、軽いもの、やわらかいもの、と西陣を手織りする機には十数種の木が適材適所に使われている。

コレについては異論があり、木造船の歴史は織機より古く、適材適所でなければ舟は造れん!と船大工棟梁は言う、当然のことながら宮大工棟梁も似たようなことを言うだろう。すなわち、木質の機能論的普遍性をして適材適所と言わしめる。

広辞苑によると、適材適所とは「人をその才能に適した地位・任務につけること」とあるけど、恐らくコレって誤りでしょう。なにげなく人材と言うけれど、人間は材料じゃないよね。

それはさておき、木質素材の多様な文様と色彩を見ていると、木の機能は別な話として、綺麗な木を身近なところに置きたい思わせることは、「木材随所」とでも言おうか、なにかしら適切な表現が見当たらないけれど、コレってわかるよね。

木目と色彩と言っても木の場合は構造色なので光が反射する角度で虹のように輝くのだ。ルビーのような深みのある輝きを持つ「あさだ」(カバー写真が「あさだ」です)とか、真珠の光沢を持つ「もみじ」とか、日差しを受けて黄金色に輝く「ひのき」や「すぎ」などをつぶさに見てゆくとその美しさは「神のなせる技」としか言いようのない世界だ。

話しはワープする。

人間はその昔、森に住みはじめた時から知性を手に入れた(と思いたい)。その意味で人間は木によって育てられたと言っても過言ではなく、「ピノキオ」や「木偶の坊」などその代表格だ。日本の氏に木に関わる姓が多いのも木と人間が密接な関係であることを示している。

更にワープ

子供のころ母に「ぼくは何処から来たの」と訊ねた。母は優しい声で「松の木の下から生まれたから松下と言う名前なのよ」と言った。ああ、そうかそうなのかと子ども心にすごくうれしくなった記憶が甦る・・・

長じて今年還暦を迎えようとする齢になり、子供の頃夢見ていた木に囲まれて過ごすことは、このようなかたちで叶えられつつあるのかもしれない・・・・

きょうはここまで西門寺(松下は本名です)
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2006年12月24日

「ひな」と「鄙」

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建物の「ひな」

この春瀬戸内の離れ小島に船小屋を建設しようと計画したが、当該の場所が国立公園だったので環境省に建設許可を申請したり、大型重機がフェリーに乗らないから建物の設計を変更したり、滑ったり転んだり、ああでもないこうでもないといろいろとした挙げ句、年の瀬も押し迫った12月20に漸くのこと舟宿「ひな」の建前を迎えることが出来た。めでたしめでたしアレは伊勢コレは伊勢。

およそ400年前に村上水軍の舟作事場だった処に、和船工房と舟宿が一体化したような建物が生まれる。檜の香りも新鮮な柱が幾本も立ち並んだ上に降翼の屋根が載る。直線と平面が交差する木造建築だ、明けて三月には竣工する。ぼくに取っては久々にこころときめく木の姿だ。

以上は建物の「ひな」のお話しでした、ついで帆船「鄙」の話しです。

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舟の「鄙」

建物「ひな」が直線と平面のかたちだとすれば、帆船「鄙」曲線と曲面のかたちだ。「ひな」も「鄙」も檜や杉や欅などの素材が使われている。あたりまえのことだけれど、素材は目的に応じた幾何学的な命題が加えられる。大地に立つ姿、海に浮かぶかたち、それぞれに機能の美しさが個性的だ。

このところ人間が創り出してきたもののすがたかたちにこのところどっぷりつかっている。多分、こんなのをゼータクと言うのだろうね。「鄙」も弥生三月には舟降ろしされ、四月からはいよいよ「ひな」をホームポートに帆柱と帆布が艤装されす、暫くは調整に大わらわだろう、果たして、明治時代の帆走は再現されるだろうか・・・

閑話休題

帆船のことは、先日土佐の天狗こと芝藤さんにいろいろと教えていただいた、感謝感謝でした。高知はいいですね、「おらんくのに〜ぃわにゃしおふくさかながおよぎおる」竜馬になった気分で痛飲しました!

翌日帰りには久万へ立ち寄り、四間の檜帆柱を注文しました。年内に山から切り出して、三月まで乾燥させ四月に削ります。久万の材木商は帆柱のことを良く知っていました、昔からあの辺の檜がひときわ優れものだったらしい。

さて、来年は楽しみだ!ブログももっと書くぞ!みなさん良いお年をお迎え下さい。

西門寺
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2006年11月24日

二丁櫓帆船

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こんにちは皆様、話題がないわけではないのですが、ついぞお久しブログになってしまいました。今回は明治時代に瀬戸内で活躍した小型帆船の復元のお話しです。

瀬戸内和船工房四杯目の和船は、二丁櫓一枚帆の伝馬船です。この7月末に造船に着手してから4ヶ月目にしてようやくその姿が見えてきました。数少ない明治時代の資料と船大工棟梁の経験と一応若い頃にはケッチをシングルハンドで操っていたぼくの帆船経験(自慢話なんだけどねここんとこ)などを寄せ集めて、試行錯誤を重ねながら何とか船体を造り上げ、いよいよ甲板を張るところまで漕ぎ着けたのである。

写真の棟梁の渡邊忠一さんがどことなく満足げな顔をしているのは、もう殆ど船体は出来上がっていて、あとは甲板を張ったり飾り物の細工をしたりと言う楽しい作業が残っているだけだからだ。どことなく、あとは西門寺君のお手並み拝見だね、と言う風にも見える。なぜなら、帆の部分はぼくが造る約束になっているからだ。

この舟で一番迷ったのが帆柱の位置である。棟梁は帆船については全く経験がなく若い頃、帆掛け船を一度だけ造ったことがあると言う、帆船と帆掛けとでは帆柱の位置が違う。しかし、帆船も一枚帆ではジブセールを持つヨットなどとはマストのこれまた位置が違う。その上、帆船にはバラストキールがない!転覆したら復元力はないと言う代物である。キミならどうする、ああ誰かおせーて欲しいもんだ!

兎にも角にも、マストの位置をエイヤで決めて船体はほぼ出来上がった・・・もう後戻りできない状態で、帆の部分を担当するぼくの出番になってしまった。このようなことだったので、ここ暫くは模型の帆を造り風の強い日には浜にでていろいろとテストを繰り返していたのだ。

・・・う〜ん、まだまだこれからがこの帆船の正念場なんだけれど・・・

この話続きます。

明日から師走・・・このテーマを今月中にまとめなきゃと思っている。

・・・う〜ん!と唸っていたら、土佐の天狗こと芝藤さんが助けてくれた。やはり舟繋がりはいいね、なんてったって「助け船」だからね。
URL→ http://diary.jp.aol.com/applet/556hcmcxuny/20061130/archive
話しは一転して、この際また土佐へ行き、いろいろと教えていただくことになった。師走には寒い12月から一路南国土佐へ。
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2006年09月13日

時にはTV取材をお断りなんかして・・・

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みんなうれしそうな表情をしている。美しいお嬢さんと一緒にいるからだけではない。このショットはテレビ愛媛の中継が終わった後に看板女子アナ小林咲夏さんを囲んでパチリしたものだ、しかも、彼女の方から「みなさんとご一緒させてください」とお願いされて居並んだ。このようなことはめずらしい。

夏の間に瀬戸内和船工房はテレビに出演する機会が多い。取材目的の大半は名工、船大工棟梁渡邊忠一さんの匠の技を紹介することなのだが、時には櫓船を押す(漕ぐとは言わない)ところを中継したり、「なぜ和船を造るのですか?」などど答に窮する質問を浴びせさせられたりする。

話しはワープする。

テレビ取材はほとんどが傍若無人な振る舞いの上に成り立っている。その傲慢さはメディア権力を持っているからに他ならない、「テレビに出してやるよ」「あんた出たいんだろ」と声に出さないだけである。

正直言って、この手の押しつけはいらない。ぼくらは取材陣の基本的な姿勢に同意出来たときにのみ、出演協力することにしている。いままでにテレビ出演を幾度となく断った。先週も某バラエティー番組のエサにされるところだったが、「ぼくらはお馬鹿さんではないよ」と言って怒気を含めお断りした。

どんな理由があってバカ番組のために、わざわざ櫓船を浮かべてタレントを乗せて押さなきゃならないのだろう、そのためには平日に少なくとも6人のスタッフをこちらは集めなければならない。予算はあるのかと訊ねたら、無いと平然と言う。

いまさらテレビ屋に道を説くつもりはないが、自分の仕事に少しはプライドを持ったらどうだ。誰がアホ番組製作のために自腹を切ってまで協力するか、おととい来い!

とまあ、普通はこうなんだが、過日のテレビ愛媛の実況中継だけは違っていた。クルーが活き活きして仕事をしていた、自分の職業に誇りを持っている人たちの振る舞いだ。リハーサルの時にアナウンサーが靴を履いたまま誤って水に足をつっこんでしまっても平然として続けていた(キャッキャ騒がしい何処ぞの軽薄アナとは違う)。

この中継には緊張感があり整然としていた。メッセージが的確でその意図がダイレクトに伝わった、僅か数分のこの中継を見た知人は、ぼくが船を造って何をしようとしているのかが初めて判った、と言ったのがその証左だ。

プロデュサーの躾けがよいのかも知れないが、スタッフの感じもとても良かった。冒頭の集合写真が所望され、一同畏まり収まった写真が女子アナから送られてきたことなんか前代未聞だ、なんと礼儀正しいことか。(ぼくなんかあとでデータ送りますなんて言ってもほとんど撮りっぱなしだもんね!

テレビ屋も未だ捨てたもんじゃない・・・
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