2013年01月04日

311以降二度目の正月

311福島原発事故以来、何かしら日に日に不透明な時代になってきて、政府にもマスメディアにも不信感が増すばかり。こんな時にこそ自分の言葉で自分の考えて行動しなければいけないなと思うことしきりです。

冷静に考えてみれば、マスコミの”原発の安全神話”と言う便利な言葉も、”原子力ムラ”と呼ぶのと同じであり、対象を抽象化しその責任を意図的に不明確にするマスコミの方便のような気がしています。

過酷事故なんて言うけれど、フクイチはやるべきことをやっていなかった手抜きが原因で有り、管理責任を問わなければならない重過失事故だ!それは航空機の墜落事故のように原因究明のために機長以下免責を与えると言うレベルのアクシデントで無く、フクイチは安全確保の出費を抑えたことが原因だ。

何のことは無い、原子力技術という名の”似非科学”を利用した原子力村という”利権集団”の大規模な詐欺事件のようなものであり、災害事故対策を怠ったケチな経営者の陳腐なお粗末な田舎芝居なのだ。

間もなく事故後2年が経過しようとしているのに、被災者にとっては殆ど何も有効な救援対策が取られないままに今日に至る。自然界を支配している法則にはウソが無く、フクイチが再臨界に達することもあり得ると言うことを肝に銘じておくべきだ。

2013年正月
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2011年04月02日

暫くお休みです。

東日本大震災の被災者の方には心からお見舞い申し上げます。

このブログも間もなく、三年間のブランクだというのに、いまさら「しばらくのお休み」でもありませんね・・・

二年前の夏、帆を上げて瀬戸内海を帆走して以来、いろいろな出来事はあったのですが、ブログを書くことをほったらかしにしていました。このブログは、瀬戸内和船工房の歳時記を書き留めておこうと始めたものなので、いろいろなことをマメに書き留めて置かなければならないのですが・・・トホホなことでした。

この間、船のことではいろいろな事故・事件が発生しました。特に昨年の夏は災難続きで、和船の舵を浅瀬で折ってしまったり、ヨットをデスマストしてしまったり。まあ、それでも怪我もなく不幸中の幸いでした。

この五月からは気分一新して、新しい帆を組み立てたりしようと考えている矢先に、大きな地震が来てぼくの故郷二本松も大被害でした。ここしばらくは瀬戸内のことは棚上げにして、故郷の復興のためにエネルギーを使いたいと考えています。

何をどうするか?決まり次第このブログでもお知らせします。

それでは皆さん、ごきげんよう。

瀬戸内和船工房 西門寺 暁海 (松下 哲雄)

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2009年08月21日

「ひな」快走

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いささか旧聞で恐縮、去る7月19日に瀬戸内海の小島、弓削島にて「瀬戸内ヨットミーティング」が開催された。帆船「ひな」も処女航海から2年目の夏を迎え、帆艤装も幾度かの改良が施され操船性能も向上して来たので、ヨットミーティング海域で公開帆走することになった。

遙か昔の小型帆船を再現した「ひな」が現代のヨットレースのなかに「闖入」するシナリオである!ナニが起きるかお楽しみ!

レースが行われる弓削島松原海岸迄は「ひな」の艇庫がある鵜島から凡そ10海里の航海。当日の朝の潮流は前半が連れ潮(潮の流に乗り進むこと)後半が向かい潮(潮流に逆らって進むこと)だ。

行程5海里ほど進んだ辺りに潮がぶつかり合い複雑な流れを作り出す難所があり、航海の前半は追手風満帆と補助エンジン機走とで凡そ10ノットほどの快走だったが、後半は潮の流れに逆らって進ので極端に艇速が落ちる。

進行方向左手に佐島が見えてきた頃、潮の流れが変わり向かい潮と追い風が作る三角波が行く手を阻む、風は3〜5ノットの追い風だが潮流は3ノット程度の向かい潮、「ひな」は進んでいるように見えるが左手の佐島が一向に動かない。

それではと、潮の流れが弱い佐島の海岸線近くに進路を取り直した、追い風も弱まったが補助エンジンの推進力では5ノットそこそこの走りである。このようなことで、弓削島へ辿りに着いたのは鵜島を出てから1時間半余りのことである。

「ひな」は10海里の航海を終え、レース海域に乗り入れた。こちらはレースにエントリーしたわけでもないのでマーカーを目指して帆走しているレース艇に邪魔にならないような場所でのんびり帆走しているだけなのだが、ユニークな船体がとても目立つ。

取材クルーを乗せたTVカメラ搭載艇がめずらしい形の「ひな」に接近して来る、近寄ってきたレース参加艇ともエールの交換をする。洋上で挨拶しながらあちこちと気ままに帆走しているウチに風が強くなり始め、「ひな」は縮帆し機走に切り替え、支援船のパワーボート共々松原海岸沖に停泊した。

この日は松原海岸の海開きでもあり、午後のイベントのひとつに子供達を「ひな」に座乗させ「櫓船体験」楽しんで貰うプログラムがある。櫓漕のために補助エンジンを取り外し二丁の櫓が着装され、「ひな」は帆走クルーから櫓漕ぎクルーへと入れ替わった。

櫓船体験は「木の船」を見たことのない子供達に大評判、子供と一緒に乗船したお父さん達も櫓漕ぎ体験を楽しんでもらい、大いに楽しんだ一日を過ごしたのです。

好事魔多し!帆走クルーと櫓漕ぎクルーとが入れ替わったそのとき、クルーの一人が沖合に助けを求めるカヌーを目撃した。ヨットレースが終わった時刻から西風が強さを増し、カヌーが転覆したままどんどん沖合に流されている!

帆走クルー、と言ってもぼくと嫁さんのペアなのだが、ぼくと櫓漕ぎクルー(鵜島の櫓人と神戸大櫂伝馬クラブOB)の三人が「ひな」に乗り込み、嫁さんを陸に残し救助に向かった。

のろけ話みたいだが、彼女を陸に残したので大事にならなかった、そのことは後述するが、二重遭難を未然に防げたのだ!さて、救出劇の一部始終をお話ししましょう。

鵜島の櫓人こと「逸ちゃん」は鵜島生まれの鵜島育ち、現在は今治市内で船舶会社のオーナーだが、櫓船を漕がせたらこの人の右に出るものはいない、そればかりか、エスキモー並みに眼力がある。遙か沖合で波のまにまに見え隠れしている白いものが転覆した舟と助けを求めている二人であると解ってしまうのだ、これぞ正真正銘の海人櫓人!

東の沖合に流されている、転覆して波間を漂う二人は直線距離にして500メートル程だろうか。こちらが救助に向かおうとする前に、その海域に他の船はいない、ヨットレースが終わりほとんどの動力船が、島の反対側にある弓削港に回航したらしく、広い海原には遭難している二つの白い船体にしがみついている二人だけ、その遙か沖合を大型船が航行しているが10海里も先だ!

「ひな」は櫓漕ぎ体験のために船外機の補助エンジンを降ろしているので、遭難現場に行き着くためには帆走するのが最も早い。遭難者は東南の方向に漂っている、「ひな」は右後ろからの追い風を受けてドンドン進み現場に到達するのに5分と掛からなかった。

果たして、一人乗りのカヌーが2杯転覆していて、若い男の子がそれぞれにしがみついていた。帆を下ろして船足を留め「ひな」に遭難者を引き揚げカヌーを2杯繋いで、櫓漕で帰航しようと試みた。

その時間、潮の流れは沖合南から東、風は向かい風の西から東、五人が乗り込んだ「ひな」は沈み込み船足が極端に落ちる。その上向かい潮と向かい風である、舟は進むよりも風に押し戻され潮に流される方が強くどんどんと沖合に流される・・・このままだと二重遭難しかけない。

船外機を積んでいれば機走して帰航出来たかも知れない、帆を上げても潮の流れが早くて陸からは離れてしまう。こうなったら携帯電話で救助を求めるのが、賢明である。

文明の利器!マサカの時の防水携帯電話!神様仏様奥様!ぼくはカミさんに助けを求め、鵜島の櫓人はヨットミーティング大会本部に救出を求めたのである。

最初にカミさんの乗ったパワーボートが到着して「ひな」を曳航した、風は益々強まり波頭が白く砕け始めて海は荒れ始めこうなると曳航するのも簡単ではない、程なく大型の警戒船も弓削港から現場に駆けつけたので、2人の遭難者に「ひな」から警戒船へ乗り移って貰い舟を身軽にして松原海岸に帰港した。

上陸して海を振り返ると海原は立派に荒れていて、鵜島の櫓人が彼らを見つけなかったらかなりやっかいなことになっていたなあと、思ったのでした・・・まあ、一件落着かな。
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2009年04月04日

ご無沙汰・・・恐縮・・・

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↑ この写真は神戸大学の伝馬船同好会のメンバーが鵜島で09年春の合宿を行ったときのスナップである。鵜島の南海域で帆走訓練した後に、帆を降ろし櫓を立て能島の潮流を漕ぎ渡り、いま当に村上水軍城址能島へ上陸しようとするところ。クルー全員が接岸地点を凝視してしている、接岸こそ船乗りの技量が試されるところなのである。

そうそう、アッという間の半年でした!ブログを書く材料がなかったわけではなく有り過ぎるぐらいだったのだが、書く気がなかったみたいです。ブログ書いているよりもドラマチックな海の物語が有ったものだから、充足されちゃってすっかり疎かにしてしまったのである。一息ついたのでここで数日で半年の出来事を書き上げることにしましょう。

↓ 下の写真は昨年10月初旬、未だ帆桁が艤装されていない「ひな」が艇庫からスロープの上を曳きだされて洋上に浮かんでいるところ。後ろの建物は舟宿「ひな」(と言っても御宿「かわせみ」のような美人女将がいる訳でもなくまして宿屋でもなく、舟の番小屋である)と瀬戸内和船工房の艇庫、季節は秋の晴れた日、瀬戸内の離れ小島にはいつでも静かな時間が流れているような海がある・・・・

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↓ 三枚目の写真は帆柱を立て一枚帆を上げたときのスナップ。夕凪の時間は風が殆ど無いので帆を組み上げて艤装の確認を行っているところ。船尾に座乗している人影から舟の大きさが測れると思うが、帆船「ひな」は一枚帆二丁櫓帆柱高6m80cm艇長7m40cm幅2m10cm総重量1200kg定員7名の純木造船である。

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↑ いまは砂浜に座っている状態だが、満潮になると舟は浮き上がり航行することが出来る状態になる。木舟なので昔からそうしていたように砂浜に曳き揚げておかなければなりません、長時間海水に浸っていると船虫に喰われて船腹に穴が空いてしまうのです。おおなんと恐ろしい!

さて、帆走の話しを続けましょう。「ひな」などと可愛らしい呼び名が付けられたけれど、彼女の形は源平合戦の時代の戦闘艇なのである。

↓ 下の写真で説明すると、「ミヨシ」(前甲板、クルーが立っている場所)に楯を置き弓を引く場所である。「ひな」の場合には櫓が二丁付いていて面舵櫓(右舷)と取舵櫓(船尾)である、従ってこのタイプの舟は挟撃戦の場合に左舷側に敵の舟を見て戦闘する攻撃力が優れている。弱点は右舷である、敵船から右舷に寄せられると面舵櫓が使えなくなってしまい、運動能力が半減する。

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まあ、この様な源平時代の海戦をのことを考えて戦闘艇を再現したわけではないのだけれど、二丁の櫓を使い「ひな」を漕いで見ると源平時代の海戦がイメージできるので述べたまでである。

帆柱を建て帆を上げて風を入れ海の上を走ってみるといいろいろなことが見えてきて面白い、そのお話しはコラムを替えて続けます。


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2008年10月20日

「ひな」帆走

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バンクーバーではこのような日を「インディアンサマー」と呼び、小春日和には未だ少し早い秋晴れの穏やかな一日のこと、瀬戸内海で愛艇「ひな」はやわらかな日差しとゆるい秋風を一枚帆に受け海面を滑るように走りだした。

小早舟二丁櫓帆掛の黄金色に輝く船体は水飛沫を上げて、帆船としての処女航海を迎えたのだった。ことここに至るまで、足掛け三年を費やしての帆走だった。船体の和船は源平合戦の絵巻物にも出てくるような戦闘艇「小早舟」に当時の一枚帆を再現した船である。

昔の舟を再現した酔狂を"どうするつもり"と言われそうだが、成り行きでこうなったまで深い意味はない。そのようなことよりもうれしかったことは、小型帆船「ひな」が設計通りの運動性能を発揮して安定したセーリングを見せてくれたことである。

「ひな」は一枚帆なので風上に向かってタックする「上手廻し」が出来なくて、風下にジャイブする「下手廻し」しかできないのだが、僅か3艇身ほどで反転する運動能力には艇を設計制作したぼく自身が驚いた!

ことここに至るまで、「ひな」の帆走は計画通り進まなかった、それは帆走処女航海が1年半も遅れてしまったことだが、なかなか思い通りに行かないこともあったし、生来が"ゆるキャラ"のぼくなのでなかなか進まないのだ。

「ひな」の基本設計はぼくが行い、板図(実施設計)と造船は舟大工頭領渡辺忠一さんが作事した、とここまでは二人の共同作業だったが、二丁櫓として進水した後、帆船艤装はぼくがひとりで担当することになっていて、詳細設計が大幅に遅れてしまったのだ。

中世の瀬戸内を走り回った小型帆船、と言っても絵巻物や屏風絵とか水墨画とか文人画などでしか見たことがない。そいつを再現してやろうというのだから、「見てきたようなこと」を行わなければならない。

山水画に小さく一艘の小舟が書かれている、その一艘の舟がなければ「画竜点睛を欠く」ことになる、ので、山紫水明に小舟は欠かせない。しかもその小舟には一枚帆が掛けられている。

子供の頃、よく遊びに行ったお寺の庫裡に掛けられていた掛け軸の中に描かれた小舟は透明感のある空間に漂っているかのように見えて、ぼくの淡い記憶に残っている。

マサカとは思うでしょうが、半世紀の後にその淡い記憶を再現したのが"「ひな」の帆走"なのです。コレ作り話みたいな本当の話です。

閑話休題

「ひな」の帆走ビデオはYouTubeで見ることが出来る、以下のURL

http://jp.youtube.com/watch?v=GAXal3qEziY

http://jp.youtube.com/watch?v=DzXNmsifukA

にて、ご覧じろ。今日はここまでこの稿続く@西門寺
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2008年08月09日

桜伐る馬鹿ことの顛末

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この間、つまり直前の5月ブログから3ヶ月間余り、桜の木が伐られてしまうのか!助かるのか!何ともやきもきした時を過ごした。果たして結果は桜の木は守られたということである。先ずはコレめでたしめでたしの一件落着だった。桜の木を守る署名に協力していただいた多くの人々にこころからお礼申し上げたい。皆様本当にありがとうございました。

承前

5月のブログから3ヶ月あまり過ぎたときの8月9日のブログの続き。

桜の木は15本のうち、水屋を作るためにどうしても場所が確保できないとの理由で、2本だけ伐採される運命になった。国際的な署名運動は大きな影響を与えた。

はじめはクリーンカット(全伐)する計画だったのが、地元の日系人をはじめ多くの人々の働きかけで日系人の心のよりどころであるオッペンハイマーパークの桜の木は救われた。

こんな嬉しいことはない、もう一度、ぼくの呼びかけに応えて署名してくれた皆さんに心から御礼申し上げたい。ありがとうございました。

さくらさくらのYouTubeをご覧じろ
http://jp.youtube.com/watch?v=jTAphbWTNIc&feature=related
日系人の桜に対する思いが良く出ている・・・

この稿、10月10日に書き終える。

今度からもう少しまめに書きます。西門寺
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2008年05月12日

サクラの木と日系カナダ人の歴史

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古びた一枚の写真、いまから30年余り前のこと、カナダはバンクーバー市内の公園に、日系人の手によりサクラが植樹された時の記念写真である。ここに居並んだ人々は日系移民一世・二世の人々なので、なかには第二次世界大戦時にカナダの強制収容所(*1)での暮らしを経験した人々もいる・・・

この写真が撮影された年1977年は、カナダ日系移民百年を記念していろいろな催事が持たれたが、ソメイヨシノを市内の公園などに植樹したことも重要な行事の一つだった。人々は誇らしげに日本のシンボルである桜花の中にカナダのシンボル楓の葉をあしらったTシャツを着て、手植えした。

果たして30年の後2008年、陽春に一斉に咲き誇り数日を経て散ってしまうサクラは今年を最後に伐採されてしまうと言う「春先の珍事」に遭遇しつつある。良く「櫻切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」と言うけれど、櫻枝を切るのではなく伐採してしまう何とも呆れた話しだ。

木を切る本当の理由は公園を改修するときに邪魔になると言うことらしい、2年後にひかえたバンクーバー冬期オリンピックに備えて、街を美しく整備しようと言うことが、ことの始まりだ。

行政当局はかたちばかりのコミュニティー関係者のヒヤリングを行い、あろうことか、「サクラの木が古くなり毒を発生させているから伐採する」などと支離滅裂なコメントを発している。

当該のサクラが植樹された公園は、バンクーバーの日本人街パウエル地区にある「オッペンハイマー公園」である。公園の名前を聞くと日本人ならギクリとする組み合わせではないか、「オッペンハイマーにサクラ」とは少し刺激的だけれどこれは全くの偶然である。

公園名の由来は兎も角、その由緒あるサクラの木を薙ぎ払うとする行政当局の施策は暴挙以外の何ものでもない。日系移民史そのものを侮蔑するような出来事である。事此処に至り、日頃は穏和な日系コミュニティーの人々もこの寝耳に水のような出来事に黙ってはいなかった。頼もしくも、若い世代が「サクラを守れ」と立ち上がったのだ。

「いまどきの若い人」が熱く燃えて、お父さんやお母さん達が手植えした日加友好のシンボルを守れと連携した。失われた世代とか醒めた世代とか言われているのは日本ばかりではない、がしかしこの国では若い人々が率先して行動した。

そのアクションプログラムの一つに、インターネットで「サクラの木を救うための皆様の署名活動」がある。この場をお借りして、皆様にも以下のリンクをクリックし、是非ともサクラの木を守るための署名をお願いしたい。
http://www.petitiononline.com/powell77/petition.html

ぼくもこの4月に訪晩(*2)した折り、サクラの木を守る関係者と会って運動の末席に参加させて貰うことにした。ぼくにとって、第二の故郷バンクーバーの地域コミュニティー活動に参画して、旧知と共に同じ空間にいることを感じ取ることができるなんて!何と30年振りの出来事なのだ。・・・いろいろな思いが込み上げてくる・・・

ぼくはなんとしてもこのメモリアルなサクラの木々を守りたい。仮に、行政当局の愚挙の挙げ句、歴史的遺産が踏みにじられるようなことがあっても、ぼくらはへこたれずめげずまたゆかりの地へサクラの木を植えてやるつもりでいる。

しかし、いまのウチの声を大きくしてサクラを守れば、カナダの民主主義はそれを受け入れてくれると思う。だから、みなさん是非とも署名をお願いしたいのです。

(*1)
日系人強制収容所についてカナダの名誉のためにも触れ述べておきます。1988年にカナダ議会は、日系人に対して行われた戦時強制収容が誤った政策だったと認め、被害者への補償を行いました。

(*2)
「訪晩」の晩はすなわちバンクーバー(晩香波)のこと。明治の日本人は倫敦、紐育、伯林、巴里などと二葉亭四迷のような当て字を楽しんだが、バンクーバーを晩香波と表記したことは秀逸、港町バンクーバーは夕凪が終わり、海風と共に潮の香りが漂い夜が更ける土地柄なのである。
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2008年03月19日

海の厳しさ

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最後に書いたブログが昨年の11月だったから、凡そ4ヶ月振りの独り言になるのだね、皆さんご無沙汰していました、如何お過ごしでしたか?なんてネちょっときまりが悪くもありますね。

極友(すごくワルのお友達)から「ブログどうした」との励ましを兼ねた消息メールが届き返事を出したら、「命運尽きたかもしれん」と半ば本気で思っていたようだ。

西門寺暁海こと船頭松を自称する小生は、昨年の夏の終わりに還暦を迎えた、団塊の世代ド真ん中の人生なのだ。暫くご無沙汰しているといつの間にか「お迎え」が来てしまった友人がいてもおかしくない齢である。4ヶ月のご無沙汰では「逝ってしまったか?」と思われても無理もないことなのかも知れない。

さて、空白の4ヶ月をまとめてご報告(と言って、決して頼まれているわけでもないけれどね)。先ずは冒頭の写真、有田キャプテンが率いる神戸大海事科学部(旧神戸商船大)の伝馬船競漕会メンバーである。ご覧のように、プラスチックボートに艪床を設えて櫓船を押している。

その昔、神戸商船大の古き良き時代には全員が櫓船を押した、当時は正課として櫓漕実技が有り、櫓船を漕げない学生は卒業させて貰えなかったらしい、尤も「竿三年艪は三月」と言って、三月も漕げば体が覚えてしまうのが櫓漕であり、それほどは難しくない。

現在の神戸大海事科学部では、「待った無しで世界の海を相手出来る強い人間を作るために」、「和船文化の存続」などと流暢なことは言わぬ。高度経済成長時代に船舶は大型化高速化して海上交通の危険度が飛躍的に増したから、のんびりゆっくり櫓船を漕ぐなんて場合じゃないのである。

にも拘わらず!と話はワープする・・・イージス艦の事故を見よ!ソルジャーにも拘わらず、弛みきったサラリーマン根性の船員が沢山詰めていたが、誰一人として船乗りの責務を果たしていなかったブリッジが存在したから、当然のごとく悲劇は起きてしまったのだ。

何故こんなことになっちまったのか、ぼくには解るような気がする。それは、軍隊式の団体行動教育ではないかと思う。スキッパーの号令で個性を廃して奴隷のように船を漕ぐカッターボート訓練のようだ。櫂の船は一人一人が推進力でしかなく、「判断力」を持った海の男を育てることはない・・・

それに比べて、神戸大海事科学部のメンバーが設立した伝馬船競漕会の連中は違う、一人一人が船頭の心意気を持って漕いでいる、そこが自衛隊のカッターボート卒業生と違うところなのだ。櫓船の船頭は海に出ると誰も頼らず、全身全霊を傾けて艪を漕ぎ、潮の流れと行き先を見定めて船を走らせている。

ことほど左様に、艪の船と櫂の船とでは違うのである。それはただ単に推進力が、艪=揚力と櫂=抵抗力との違いだけではない、個人と団体、自己責任と集団責任、前向きと後ろ向き、月とすっぽん、味噌とチョコレートぐらいの違いがあるのである。

誤解召されるな、ぼくはだからといってオールを漕ぐ人間がだめだとは言わない、櫂の船もスキッパー次第なのだ。イージス艦のスタッフはスキッパー役すら満足に果たせない、凡そレベルの低いサラリーマンソルジャーだったんだと思う。まあ、余り本気のソルジャーはほしくないけれどね。

おお、なんとこの度はポリティカルなブログでしょうね。ネグリが訪日できないらしいので、このぐらい毒づきたくもナルのであるよ・・・

と、先週ここまで書いて多少品位のない言葉で締めくくったのは拙かったな、まあ、腹立ち紛れに「アホ」などと書いたが、それは誰に向かって叫んだかで意味が違ってくる、余りポリティカルなリードはしたくないけれど、当局がこの度のことでネグリに勲章を贈った結果になったのだから、それを考えるとああやっぱり国際的にお馬鹿さんなのだねえと、呆れたりもしますね。ここは意味不明。

閑話休題

この1月松の内が明けた頃に神戸大の深江キャンパスを訪ねた、海に接したキャンパスにはグランドもあるが「ポンド」もある。ポンドとは船着き場で、そこには神戸商船大の時代から練習船深江丸が係留されていて、艇庫からはカッターとかカヌーとかセールボートとかがバンクから降ろされたりして海に出て行くのだが、未だ冬休みで教官の他は誰もいなかった。

このときに、旧知の教官に瀬戸内和船工房から二艘の櫓船をプレゼントしたいという申し出をした、それは快く受け入れられ2月下旬に船は工房から運び出された。嬉しいことに、櫓船を漕ぐ実技が正課に復活するそうである。

二艘の船のうち一艘は未だ進水式も終わっていない新艇だ、4月上旬に新学期が始まったら進水式を行う予定だが残念ながらぼくは欠席!明日から久しぶりで北米旅行に出る。

四ヶ月振りのブログはもっとリポートしたいこともあるのだけれど、なあに急ぐことはない。それは、瀬戸内和船工房がある鵜島に生まれた「鵜島有機農業組合」のお話や、ぼくの故郷安達太良山麓に作られる「あだたら高原チーズ牧場」の話だ。

ここ四年間ばかりは、伯方島で和船を造ることとその隣の離れ小島鵜島に「船宿ひな」と「瀬戸内和船工房」を建設するのに忙殺された、この間ブログを書く暇もないほど忙しかったのだが、いろいろと手掛けているうちに自然にやらなければならないことが見えてきた。まあ、決して急ぐことはないのだけれどね・・・

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2007年11月28日

冬の日本海

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温暖な瀬戸内から一路日本海へ出る、綾部で古い友達と旧交を温めた翌日は北上し舞鶴から日本海を左に見て金沢までひた走る・・・気象予報では、大陸からの寒気団が押し寄せこの週の日本海側若狭湾から北の方は、寒波による風雪で大荒れに荒れるはずであった。

しかし、予想に反してその週の日本海沿岸地方は時折小雨が降る程度で、あまつさえ青空を覗かせた。用心深く11月も半ば過ぎなので、伯方島でスノータイヤに履き替えて・・・

・・・とまあ、ここまで駄文してその先を書かずに一月近くも放置したこと誠に恐縮・・・話しを再開、さて何故少し早めにスノータイヤを着装したのか・・・

ことしは早速と11月中旬に日本海、東北、北海道の広い範囲で本格的な雪が降り山岳部は結構積雪が多く、スキー場の関係者からはうれしい悲鳴が聞こえていたからである。

スノーボーダーもスキーヤーも異常気象が「大雪の年」に振れるのではないか、と期待した。その翌週に冒頭で書いた「寒波と降雪の予報」である、親不知子不知を走り抜けるにサマータイヤでは不可能であり、新潟から会津へ抜け安達太良山の北側から岳温泉へ抜ける「日本のカイバル峠」は時としてスノータイヤ着装車でさえ立ち往生する難路だ、もとより土湯トンネルが出来るまでは毎年11月には閉鎖され春までは深い雪の下に冬眠する街道なのである。

これらの圧雪街道を猛スピードで走り抜ける醍醐味を味わいために、わざわざ寒波が襲う地方へと出掛けたのに、肩すかしの晴天続き。ものの見事に予報は外れなんとも締まりのない旅になっちマッタゼ。ああ〜アレは春だったんだね♪

と、ここから話しはワープする、今までは前置き。

今回の場合は、降雪予報が外れて晴天だったから良かったものの、その逆だったらどうなるか!わかるコレ?

そうダンです!危険が危ないのです。サマータイヤを着装した車は突然降りしきる雪に見舞われ立ち往生するならまだしも幸運でブラックアイスでスピンしたり、滑ったり転んだりの大騒動になってしまいますのです。特にスノーシーズンの初め頃の降雪は今までも沢山の悲惨な事故をもたらしました。

それじゃ何故、なにゆえこれほどまでに予報が外れたのか?旨く説明できないがその原因とは、多分、天気予報は過去のデータも利用してその傾向を見ていて、それとここ何年かの温暖化異常気象の傾向との大きなズレが発生して予報精度が時として大きく外れるのではないだろうか、と言うことである。

降雪の場合は「外れた」と確信できる。しかし例えば、風の強さとか向きとか、気温とか湿度などは「外れた」とは実感できない。ともあれ今後、温暖化の異常気象は暫く大きく外した気象予報を人類への警鐘として残すことになるかも知れない。

海に山に、気象予報を信じ切って出掛けたりするととんでもない遭難が待ち受けている、と言うことをイメージしましょう。
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2007年10月27日

巧みは細部に宿る・・・

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秋の祭りに舟を降ろした。島の中央に位置する鵜島神社から神輿が担ぎ出され、港で祝詞を上げた後に「ひな」に載せられて櫓走し島の南端に位置する福島神社に洋上から詣でた。その後、神輿を載せたまま島の南西にある岬を一つかわして小濱から揚陸され、御輿は海端から舟宿「ひな」の敷居を跨いだ。

島の人々は、幾久しく和船に据えられた神輿が、謳い上げる音頭と共に海航するさまを見てはいなかったので、その姿を見て懐かしんだ。秋の一日「海事」は深夜まで続けられ翌日、「ひな」には帆柱が立てられ暫く小春日和のやわらかい陽に晒された。

帆船艤装・・・実はこの春から、まったく悩ましい限りの日々が続いている。愚かにもぼくは、明治時代の帆掛け舟はきわめて単純な仕組みなので、帆桁を艤装することはそれほど難しいことはないだろうと思っていた。

しかしながら、風の力を推進力に替える仕掛けは理解していたが、明治時代の小型帆船を再現するに必要な知識と技は全く持ち合わせてはいなかったのだ。ぼくが知っていると思い込んでいたのは、若いころのセーリング体験から得た知識だけだ。

ヨットの艤装はその技術的な系譜を西洋の帆船の歴史に由来するのだから、それを真似て和船に持ち込んでも原理原則的なところは変わらないけれど、細部では和船と西洋のセールボートとは異なる。船でさえもまた、西と東は出遭うことはないのである。

古くから日本近海を行き来した小型帆船は、千石船とか北前船とかの船大工の集団が伝承してきた洗練された完成度の高い技術とは全く違って、小型の帆船は恐らく、その地方の船大工と漁師との合作であり、経験則で「巧みにこしらえられた帆掛舟」だったのではなかろうか・・・と考えるようになった。

・・・僅か百年足らず前のことなのだけれど、この国の小さな帆船の記憶は殆ど残っていない・・・

例えば、帆柱と帆桁を結束するには幾通りかの方法が有る、しかしどの方法を選ぶのかは、その地域特有の風や船の形や船頭や船大工の好みなどがあり、船それぞれに微妙な違いが有るはずだ。

工業製品化される以前のものづくりを体験してみると、知恵の迷路に放り出されたような途方もない日々を過ごすことになる・・・目の前に帆桁に使う竹がある、この竹一本をとっても切り出す時期が違えば弾力性や強度が違ってくる、なんてこと知らなかったぜ!

ものを作ると言うことは、小さなこと一つ一つがちゃんと出来ていなければならないという教訓をあらためて思い知る。全体は細部から作られて、巧な技はその細部に現れてる。

腕の見せ所とは、素人の解らないところにちりばめられていて、職人は良い仕事をした後なんか、何喰わぬ顔で道具を片付けていたりするものである。だから!ちょっと足りないぼくには「巧」が見えていないのではなかろうか・・・う〜ん、どうしよう・・・

閑話休題

孤島のインターネット装置は秋口に突然変調を来した。ファームウェアにセキュリティーホールが見つかり、子機から親機のファームをリモートでバージョンアップをするという「これぞまさしく離れ業」を敢行して成功させたが、クールダウンしてリセットをしなかった所為かイマイチ調子が悪い。

そうこうしているうちに、アレヨアレヨという間にPCが死んでしまいパニクッて東京へ戻り体勢を立て直した。セキュリティーホールのリポートが遅かったためかも知れない。頼みますよ「猛牛ちゃん」!

加えてどうやらこの猛暑で無線装置の部品が劣化してしまったらしく、涼しくなった彼岸過ぎに完全に死んでしまった、潮風と高温が経年劣化を早めたのだろう。無線装置のご臨終間近の頃は通信速度が極端に遅くなり計測できないほどであった。

なんと、投資額10万円を超すプライベート無線装置が僅か半年しか使えないとしたら、これは切り捨てられた地方を象徴する様な出来事である。ああ、NTTは鵜島にインターネットインフラを未来永劫作らないのだろうか・・・

全体は細部が造り上げるの例え。小さなものごとがちゃんと出来ていないのに全体が出来るわけがない。それと同じで、全国津々浦々の小さな村や町を切り捨てて、この国が国であろうことはない。
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2007年09月09日

空の舟

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写真はラファエル・ヴィニオリの手による建築物、あるいは又、舟に魅せられた建築家のモニュメントと言うべきか・・・しかし、この巨大構造物がやがては無惨な澪標となるだろう、と書き留めたら彼はなんと言うだろうか・・・

都庁が新宿へ移転した跡地に国際コンペによって東京国際フォーラムが建てられたのは1996年5月、都心の高層ビルが乱立する谷間に何故このようなランドマークが建てられたかのは理解に苦しむところだ。

黄昏に浮かぶ舟、この写真を撮影したのは2001年だから竣工して5年目のことだ、このとき既に中空に浮かぶ巨大な船体は唯一このカメラアングルからしか全体の姿を眺めることが出来なかった。

グーグルアースで確認したところ、幸いにして2007年9月現在も同じ風景である(らしい)が、目の前の空間に高層ビルが建てられることは時間の問題。やがては地上から「空の舟」の全体を見渡せる場所はなくなり、ビルの谷間に埋もれた無惨な竜骨と化してしまう。堆積物に閉じ込められた魚の化石。

遠く離れて仰ぎ見る「空の舟」をイメージした建築家の狙い(と、ぼくが勝手に想像しているのだけれど・・・)は打ち砕かれてしまうのである。

この建物は、小高い丘の上の周囲に視界をさえぎるものがないような場所に造られてこそ意味がある。だがしかし、現実は非個性的なビルが立ち並ぶ谷間に埋もれて漂う箱舟のように見える。

この場所に場違いな構造物を建てた関係者の愚かさを嘆けばいいのだろうか・・・何故この様なことになったのだろうか。こうなることをヴィニオリは知っていたのだろうか・・・

もののかたちには明確な意思がある。この建築家のコンセプトがいかなるものであれ、彼の手を離れて立ちすくんでいる巨大構造物が放つメッセージは悲痛だ。

・・・どうするつもり・・・

さて、このところはあまりの暑さで作業が捗らず、まだ帆船の姿は見えてこない。暑さに負けて昼間はエアコンの効いた部屋でデジタル写真の整理などをしていて、「空の舟」の一枚に眼が止まり自分の舟に「空の舟」を重ねている。

白露の節季だというのに連日30度を越す瀬戸内。8月末に帆桁の艤装も準備が整い、組み上げた帆を調整するための仮設帆柱も設置した、もう少し気温が下がったら帆を風にはらませようと考えているこの頃だ。

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2007年07月31日

明けても暮れても帆のことばかり。

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写真は、帆船ひなの進水式が終わり造船所のある伯方島から艇庫のある鵜島へ回航し、浜に曳き揚げている時に撮影したもの。「ひな」にとっては最初の揚陸である。

白いロープの先には10余人の人間と4枚の滑車があり、「ひな」を牽引している。力を込めて砂浜を曳いたのだが、船底とレールの間に砂が噛んでしまい重くて難儀した。見かねた島の人々が驟雨の中ずぶ濡れになって手伝ってくれて、ようやくのこと庭先へ曳き揚げた。

その昔、木造船は毎日漁を終えたら巻き揚げ機などで曳き揚げられた。船底に海藻や貝などが付着しないようにするためと、海水温が高い夏の間にはフナムシが船底に卵を産み付け孵化すると、木質を食い荒らし高価な舟に穴を開けてしまうからだ。

木造船の時代は一月に一度ほどは舟を船台に上げ、船底を杉葉のたき火で燻し船虫退治をした、これを「たでる」と言う。当時は船底塗料などのない時代だから手間が掛かることおびただしいものだった。

しかし、手間が掛かる分木造船は塩水のために腐敗しにくく、百年以上も使えたと言われる。安芸の宮島は厳島神社が四百年も水中に立っていることを思えば、海水と木の相性の良いことがお判り頂けるでしょう。

木造船の船体はこのように世紀を超えて残るが、反面、帆布や帆桁などの艤装は風化してしまい余り残らない、帆や麻縄は潮風でぼろぼろになり消えてなくなる・・・往事のものは博物館でも収拾できていないのである。そのようなことだから、帆を再現するのはえらいことだ・・・

ジェット旅客機は胴体や翼や内装を作るエアフレームメーカーと推進力を担当するエンジンメーカーとの合作で作られている。ジェット機とぼくの7メートルばかりの木造船とを比喩するのも少し気後れするけれど、帆船も船体部分とエンジン=帆とが別々に作られる。

明治時代の1枚縦帆を再現しようとしているのだが、小型のものになってしまうとほとんど資料がないと思った方が賢明であり、古い写真とか絵に描かれた船影とかを頼りにするしかない。どうすればいいのだろうね。

船影と言えば、四国の金比羅様は全国の船主が御新造船の航海無事を祈願して習い模型や絵馬を奉納することではつとに有名だが、いかんせんそこにも小型帆船の絵馬などはほとんどないない・・・

帆は櫓と同じに「揚力」を推進力に変換するエンジンである。もっとも、真艫(マトモ、すなわち舟の進行方向に吹く順風のこと)の時は櫂と同じで揚力でなく抵抗力を推進力に換えるのだけれども、抵抗力はエネルギー変換効率が極めて悪い、力学としては余り美しくない・・・

帆に魅せられるのは、エネルギーの変換がスマートだからかも知れない。風上へ切り上がりながら進むなどと言う芸当は揚力ならではの力学だからだ。このへんのところはヨット乗りとかでないと実感できないだろうなあ、揚力には得も言えぬインテリジェンスがあるんだよね。

その昔の揚力エンジンの代表選手と言えば中国沿海州を走り回った「ジャンク」だろう、大航海時代の横帆を幾重にも揚げた西洋の大型帆船も揚力やら抵抗力やらオールやらで進んだものだが、ジャンクは帆と櫓とで航海したのだろう、多分。その姿を想像するだに美しい・・・

次に生まれてくるときは、沿海州は上海あたりに拠点を置くシナの海賊船頭で生まれてきたいものだ!ジョニーディップ扮するパイカレ船長のような人生も悪くはないけれど、ジャンクの美しさにはカナワナイだろうとも。

ああ何故、帆走には奥深いロマンがあるのだろうね。とまあ、帆のことばかり考えていてブログもおろそかになり、困ったもんだ。八月にはいよいよ微風時に帆を揚げて試験をする、どうなることやらだなあ・・・何かとりとめもないね、このところは・・・

ここから先は、8月3日に書く

ことしは台風4号も5号も瀬戸内を脅かしたが、いまのところは我が瀬戸内和船工房も舟宿「ひな」も無傷だ。4号の時に裏山の土石が1トンほど崩れ落ちたが、予め土手を積み上げておいたので計算通り土塁が土石を受け止めて事なきを得た。

5号の時には、深夜の満潮時に台風がシンクロして高潮になったが、16mmのロープで係留した浮きデッキが船小屋を直撃することもなかった。まあ、そのうちに裏山がでっかく崩れたり、大波が船小屋を直撃することもあるやも知れん・・・どでかい地震だって今夜来るかも知れん。そう、なるようになるのさ。
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2007年06月13日

うれしいこと二題

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指折り数えれば、昨年7月末に着手してから10ヶ月目の5月末、皐月大安大潮の早朝に「ひな」は舟降ろしされた。長さ7メートル、幅2メートル、重量1200キロの二丁櫓である。

舟のかたちは、その昔瀬戸内海郷に名を馳せた村上水軍の戦闘艇、小早舟である。船首部分が方丈の甲板で、ここに弓を引く強者が立つ。「ひな」には真後ろの「取り舵櫓」と進行方向右側の「面舵櫓」が艤装されている。

余談ながら、この舟は自らの左舷を敵側の舷側に打ち当て切り込んでゆく時に強さを発揮する、何故なら左舷には櫓が装備されていないから船足は落ちずに自由に操舵できるからである。すなわち、「ひな」の弱点は右舷である。まあ、いきなり弱点の話しもいけませんね。

船体のどの部分を見ても、直線や平面はほとんど無い、水に浮かぶかたちが求めた合理性は流線型である、ぼくはいままでにこのように美しい舟を見たことがあるだろうか・・・

これから帆の艤装を始める。帆はぼくが設計して造る番だ、名工船大工棟梁渡邊忠一が精魂を傾け作事した晩年の名作「ひな」の船体に何ら遜色ない帆を上げなければ、自称「船頭松」の名が廃るというもの。

うれしさと緊張感が入り交じり久しぶりに気分が良く充実している。

うれしいことをもう一つ、瀬戸内の孤島が最大4MBの速度で世界と繋がった。やったぜ!対岸の島で親機をADSLにブリッジ接続し小さなアンテナでデータを洋上直線距離1.2キロを送る、こちらでは同じ構成の子機を設置しお互いに電波を受発信する。

最初のうちは殆んど繋がらなかったのだが、ある日親機のIPアドレスが確認できて、子機からリモートで親機をコントロールできるようになった。マシンは学習するのだろうか?日増しに速度が向上して繋がる時間も増大してきた。今では常時3MB程度で接続されている。

おかしなもので、インターネットが繋がったときからまた不健康な深夜生活が始まってしまった。このようなことでは帆船「ひな」はいつまでたっても完成しない。

ネットの無い日々はわずか2ヶ月足らずだった、早寝早起きしてよく体を動かし日に焼けて少しスリムになり、夜は本を読んで静かに暮らした。そんな日々がもう懐かしくなっている・・・もしかして、ネットが無い方がよいのかもしれない・・・なんて、余裕ですね。

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2007年05月16日

帆船浪漫

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一枚のセピア色の写真、恐らく大正か昭和初期のものではないかと思われる。瀬戸内海は潮待ち港「鞆の浦」、うたせ舟の帆を上げて乾かしているのだろうか・・・帆に風が入っていないので夕凪の時刻だろう。未だ木造の漁船にエンジンが搭載されていない時代の貴重な写真だ。

このうたせ舟のことを地元の人は「アイチケン」と呼んだらしい、船大工が大型の万力を「エゲレス」と言ったように、ものの名前はそれが何処から来たかを直裁することがある。鞆の浦海域のうたせ舟は愛知県の三河湾辺りから到来した船体と漁法と思われる。

帆船と言っても、うたせ舟の場合は底引き網を曳く為に帆を上げるので厳密な意味で帆船ではない、しかし、追い手(追い風)の時に縮帆(帆を下げて小さくする)して「帆待ち稼ぎ」する程度に帆は使われたと筈である。

「ホマチ稼ぎ」とはここから来ているのだ、すなわち、順風で櫓槽することなく船を進めるということに由来する。余談ながら、順風満帆ではない、うたせ舟のようななりの大きい帆を満帆にして風の強いときに追い風状態で帆走したら水押(ミヨシ、船首のこと)から沈んでしまうのではないだろうか。

さて、写真の舞台となった鞆の浦である。瀬戸内海は東西長い、西方は豊後水道から潮が満ちてくる、東方は明石海峡と鳴門海峡だ。西と東から満ちてくる潮は鞆の浦海域で落ち合うのでその辺りは潮の流れが無い、満ち潮でも引き潮でも潮流はほとんど無いのである。

下関から大阪湾への航路は、上げ潮を捉まえれば鞆の浦まで流れに船をまかせて行ける。鞆の浦からは今度は下げ潮に乗り明石海峡を通り大阪湾へ出るのが省エネ航法である。すなわち潮の満ち干を利用して潮流を川に見立てて川下りの要領で船を進める。上げ下げの潮の分かれ目が鞆の浦で、そこで潮待ちをすることになった。

そうなんです、潮待ち港「鞆の浦」は古事記や日本書紀にも登場する黎明期の文明の交差路のような土地柄なのです。

話しはワープ!

信じられないことだが、この歴史的に意義のある鞆の浦の文化遺産である港や町並みを埋め立てて架橋するという蛮行が地元自治体レベルで敢行されようとしている。ただただ呆れるばかりだ、この国の行政府の人間はいったい何を考えているのだろうか・・・

NPO鞆まちづくり工房 のメンバーは世界遺産クラスの歴史保存のために活動を広げている。およばずながらぼくもメンバーの一人だが、せめてこのブログを通じて広く世の中にこの愚行を知って貰い、破壊活動がストップされることを願ってやまない。

この問題は、有志が地方自治体を提訴するというかたちで推移している、こちらも併せてご覧じろ。





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2007年05月10日

孤島の通信インフラ

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舟宿「ひな」の建築と帆船「ひな」の造船とに追われて、瞬く間に時が過ぎてしまいました。なんと3ヶ月目のブログは、インターネット通信システム設置・接続状況のリポートからです。

既述したように鵜島ではADSLやISDNは使えないので、最初にADSLが利用できる大島に電話を設置してADSLを使えるようにする、場所は鵜島の舟宿「ひな」が一望できる大島宮窪町の古民家だ。この場でのADSL接続をプライベートな無線LANで直線距離1.2キロを結ぶという計画である。

大島の古民家と鵜島の舟宿との間には遮るものは何もない、能島の潮流が干満の間に音を立てて流れているだけである。親機と子機のLANケーブルの先に無線の受発信装置を付けてデータを「飛ばす」のである。

この様なシステムを構築するにはいささかノウハウが必要なので、東京でビルドして屋内での接続試験も確認し、装置一式を鵜島に送った。現地へ行き大島に親機をセットしアンテナを鵜島の舟宿に向けて取り付け、次にフェリーで鵜島に渡り、舟宿側に子機をセットし受信アンテナを大島の古民家の方向に向け取り付けた。

果たして、インターネット接続は未だ成功していない。原因を突き止めようにもフェリーが1日7便では、1日に1回の受送信試験するのが精一杯である。あれやこれやと一週間ほど接続テストしているうちに、どうやら無線LANのマシンが故障していることが判明した。なんのことはない機器の初期不良でり、これでは繋がるはずがない、膨大な時間と費用を掛けた結果がコレである。

もうウンザリ!そうこうしているうちに連休に入ってしまい休み明けに初期不良の無線LAN装置を送ることにした、なるほど、連休というのは日本列島全体が孤島になることなんだ。それはともかく、なあにイザとなったら音声モデムでナントカするさ、と思っていたのがチト甘かった。なんとまあ!音声モデムも使えないことが判明した。

NTTはいったいどういうつもりなのだろうか、島に土地を買ったときに尋ねたところが、当該の住所はADSLを利用できます、と言うことであった。しかしその後電話を設置してADSL契約を申し込んだときに、接続出来るか否か調査しますとのことで、その結果、ADSLはダメですがISDNは問題ないと言うことであった。それでは次にISDNを申し込んだら、再び調査すると言って、ISDNはダメですが音声モデムはOKですという。

ところが、今度は大島と鵜島の間は海底ケーブルではなく「ワイド無線」なのでモデムも使えませんということだ!いったいどうしてこうなっちゃうのだろう・・・ついでに書くけれど、鵜島では一般電話も3〜4回に1回ぐらいの割合で雑音が非道くて聞き取れないことがある、急ぐときには仕方がないからDoCoMoのなかなか通じない携帯電話を使ったりしなければならない、雑音もワイド無線が原因ですとのことだ!だったらせめて満足な電話が出来るレベルにそれを改善してくれ!

まあね、NTTだからこの様なこともあろうかと思い、いざというときにこちらがキレないように、この3月末に東京へ戻った時に20年以上使い続けてきたDoCoMoにサヨナラし良く繋がるauに乗り換えて、EZWebやPCメールを携帯電話のWeb接続で読み書きできるように先手を打って置いたのだ、この判断は我ながらアッパレだと思う。

面白いことに、au携帯インターネット接続でコミュニケーションするようになってから、PCの前に座っている時間がもの凄く短くなった。ブロードバンドが未接続の結果、マシンの前に長時間座ることがなくなり、少し大袈裟だが新しい世界が見えてきたような気がしている。

ぼくはまもなく還暦を迎えようと言うときに、ようやくのこと「ネットオタク」から脱皮して本物の「船頭」になりそうである。なんか話しがワープしたけど、以上が接続状況の中間報告です。

次に舟宿「ひな」のことと。知人の多くはぼくが瀬戸内で民宿でもはじめるとおもっているみたいだ、無理もないことだろうと思う。御宿「かわせみ」とか舟宿「ひな」とかの語感からは粋な姉さんとかお内儀がのれん越しにヒョイと現れそうだからね。

しかしそうではない、舟宿「ひな」は和船の艇庫と工房が一緒になった施設ようなものと思えばよい。そのようなことなので、当然のことながら「宿泊予約」などは受け付けていない。

瀬戸内和船工房にせよ、鵜島一丁櫓競漕大海にせよ、舟宿「ひな」にせよ、「船頭・ひな組」にせよ、すべて趣味の世界と言おうか、「和船ごっこ」と言おうか、単なる舟遊びなのである。

しかし、半端な遊びをするつもりはなく、今度はお仲間達と「瀬戸内和船同好会」という倶楽部を設立することになった。帆船「ひな」を出航させるためには数人の手練れがいなければ「和船体験」が出来ないからで、そのためには和船愛好家が集まって力を合わせなければ舟遊びすることが出来ない。

さて、帆船「ひな」のことです。進水式は5月30日と決まり船体は最後の艤装に入っている、進水の後は鵜島の舟宿に曳航されいよいよ帆柱と帆の艤装が始まる。この船体は暫く、復元力試験のために帆柱の先端にロープを付けて引き倒してみたりしながら帆の面積を計算したり、二丁櫓で能島の潮流を横切ってみたり、滑ったり転んだりしなければ、往事の帆船は再現できない。

帆船の古い写真や舟の博物館に残された資料などを元にしながら、船体構造を再現しその上に帆を艤装する、と言葉にすれば簡単なのだが、トコトンやるとなればそりゃもう大変でこれから先は体力勝負かなあと思っている今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしたか・・・

瀬戸の船頭@東京にて

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2007年02月28日

孤島とインターネット

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「島には電話がある」との話だったので、それならADSLは問題無く使えると思っていた、がしかしそれは甘かった。瀬戸内の離れ小島のひとつ「鵜島」の人口は40人足らず、この夏還暦を迎えるぼくが一番若いのだから、日本列島の地方問題典型の高齢と過疎の島である。

島はこのままではやがて廃村になる、日本でも無人島になった島は結構ある。NTTもやがては廃れ行く離れ小島にADSLのサービスを行う計画はないらしい。市場経済が生み出した地方切り捨ての先端、良く考えてみれば孤島に都会と同じ情報インフラがあろう筈がない、尤もそれじゃ困るのだけれど。

ISDNも無くモデムによるデータ通信だけだ、ああなんて言うことだ・・・。離れ小島に棲み不自由になる覚悟は出来ているのに、ブロードバンドインターネットが保証されないと判明した途端に、世の中から取り残されるような恐怖とストレスが高まった、この哀れなやつがれをお笑い下さい。

不思議なことに、コンビニとか自販機とかレストランとか居酒屋とかが無くても何とかなるさ、と思えるのだけれど、電話やインターネットなどが無かったら「どうしよう」と考え込んでしまうのことには、自分にも説明が出来ない。

恐らく、我慢してインターネットの無い世界を受け入れてしまえば、嘗て喫煙から離脱したように、どうしてあんなものに囚われていたのだろうと、振り返って思うことが出来るだろう・・・多分。

そう考えたときに、なにゆえ鵜島が日本の社会から切り捨てられつつあるのかと言うことが、逆説的に理解できたような気がした。すなわち、コミュニケーションインフラの不在が過疎化を推し進めた・・・のではなかろうか、と推理するに至ったのである。

しからば、鵜島にブロードバンドを実現すれば、過疎化は回避できるかも知れない。過疎は一極集中が生み出した数々の現象のひとつに他ならず、ネットワーク社会が多極社会を生み出す、過疎の村にブロードバンドを整備すればネットワーク社会を構成する一極を担うことが出来てその結果、過疎は回避される可能性がある、と瀬戸の船頭は考えるわけだ。

NTTがブロードバンドサービスを行わないなら、自家設備で実現するより他に手はない、と瀬戸の船頭は考えるわけだ。

この稿まだまだ続く



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2007年01月29日

また、木の話

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土佐は高温多湿、降水量も全国トップクラス。昨年9月以来延べ6日間滞在したが、そのうち4日間は雨に見舞われた。この雨が豊かな山林を造りだす、四国太平洋側の多雨多林エリアで育まれた材木は高知の木材市場へ届けられる。このところ木材市場へ素材を買い出しに行くのが楽しみ。

市場では様々な表情の木に出会う。板や柱にまで加工されているが、やはり木目が見える大きい板が見ていて面白い。さて、目下船小屋を建築中で屋根・床・壁などが出来上がってくると今度は内装、そのようなわけで素材を探している。

いろいろな木目の表情を見ていると想像力が刺激されて、内装プランがあるから素材を探すのではなくあべこべに、美しい木の個性がありそれを活かすための内装プランを考えるようになってしまう。まあそれもまた楽しいではないか。

「適材適所」の由来を旧知の西陣織当代は、「機(はた・織機)」が適材適所という言葉を生んだと言う。確かに、昔の織機は歯車に至るまで木製で、重くて固い木質、しなってもおれない弾力性のある木質、軽いもの、やわらかいもの、と西陣を手織りする機には十数種の木が適材適所に使われている。

コレについては異論があり、木造船の歴史は織機より古く、適材適所でなければ舟は造れん!と船大工棟梁は言う、当然のことながら宮大工棟梁も似たようなことを言うだろう。すなわち、木質の機能論的普遍性をして適材適所と言わしめる。

広辞苑によると、適材適所とは「人をその才能に適した地位・任務につけること」とあるけど、恐らくコレって誤りでしょう。なにげなく人材と言うけれど、人間は材料じゃないよね。

それはさておき、木質素材の多様な文様と色彩を見ていると、木の機能は別な話として、綺麗な木を身近なところに置きたい思わせることは、「木材随所」とでも言おうか、なにかしら適切な表現が見当たらないけれど、コレってわかるよね。

木目と色彩と言っても木の場合は構造色なので光が反射する角度で虹のように輝くのだ。ルビーのような深みのある輝きを持つ「あさだ」(カバー写真が「あさだ」です)とか、真珠の光沢を持つ「もみじ」とか、日差しを受けて黄金色に輝く「ひのき」や「すぎ」などをつぶさに見てゆくとその美しさは「神のなせる技」としか言いようのない世界だ。

話しはワープする。

人間はその昔、森に住みはじめた時から知性を手に入れた(と思いたい)。その意味で人間は木によって育てられたと言っても過言ではなく、「ピノキオ」や「木偶の坊」などその代表格だ。日本の氏に木に関わる姓が多いのも木と人間が密接な関係であることを示している。

更にワープ

子供のころ母に「ぼくは何処から来たの」と訊ねた。母は優しい声で「松の木の下から生まれたから松下と言う名前なのよ」と言った。ああ、そうかそうなのかと子ども心にすごくうれしくなった記憶が甦る・・・

長じて今年還暦を迎えようとする齢になり、子供の頃夢見ていた木に囲まれて過ごすことは、このようなかたちで叶えられつつあるのかもしれない・・・・

きょうはここまで西門寺(松下は本名です)
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2006年12月24日

「ひな」と「鄙」

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建物の「ひな」

この春瀬戸内の離れ小島に船小屋を建設しようと計画したが、当該の場所が国立公園だったので環境省に建設許可を申請したり、大型重機がフェリーに乗らないから建物の設計を変更したり、滑ったり転んだり、ああでもないこうでもないといろいろとした挙げ句、年の瀬も押し迫った12月20に漸くのこと舟宿「ひな」の建前を迎えることが出来た。めでたしめでたしアレは伊勢コレは伊勢。

およそ400年前に村上水軍の舟作事場だった処に、和船工房と舟宿が一体化したような建物が生まれる。檜の香りも新鮮な柱が幾本も立ち並んだ上に降翼の屋根が載る。直線と平面が交差する木造建築だ、明けて三月には竣工する。ぼくに取っては久々にこころときめく木の姿だ。

以上は建物の「ひな」のお話しでした、ついで帆船「鄙」の話しです。

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舟の「鄙」

建物「ひな」が直線と平面のかたちだとすれば、帆船「鄙」曲線と曲面のかたちだ。「ひな」も「鄙」も檜や杉や欅などの素材が使われている。あたりまえのことだけれど、素材は目的に応じた幾何学的な命題が加えられる。大地に立つ姿、海に浮かぶかたち、それぞれに機能の美しさが個性的だ。

このところ人間が創り出してきたもののすがたかたちにこのところどっぷりつかっている。多分、こんなのをゼータクと言うのだろうね。「鄙」も弥生三月には舟降ろしされ、四月からはいよいよ「ひな」をホームポートに帆柱と帆布が艤装されす、暫くは調整に大わらわだろう、果たして、明治時代の帆走は再現されるだろうか・・・

閑話休題

帆船のことは、先日土佐の天狗こと芝藤さんにいろいろと教えていただいた、感謝感謝でした。高知はいいですね、「おらんくのに〜ぃわにゃしおふくさかながおよぎおる」竜馬になった気分で痛飲しました!

翌日帰りには久万へ立ち寄り、四間の檜帆柱を注文しました。年内に山から切り出して、三月まで乾燥させ四月に削ります。久万の材木商は帆柱のことを良く知っていました、昔からあの辺の檜がひときわ優れものだったらしい。

さて、来年は楽しみだ!ブログももっと書くぞ!みなさん良いお年をお迎え下さい。

西門寺
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2006年11月24日

二丁櫓帆船

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こんにちは皆様、話題がないわけではないのですが、ついぞお久しブログになってしまいました。今回は明治時代に瀬戸内で活躍した小型帆船の復元のお話しです。

瀬戸内和船工房四杯目の和船は、二丁櫓一枚帆の伝馬船です。この7月末に造船に着手してから4ヶ月目にしてようやくその姿が見えてきました。数少ない明治時代の資料と船大工棟梁の経験と一応若い頃にはケッチをシングルハンドで操っていたぼくの帆船経験(自慢話なんだけどねここんとこ)などを寄せ集めて、試行錯誤を重ねながら何とか船体を造り上げ、いよいよ甲板を張るところまで漕ぎ着けたのである。

写真の棟梁の渡邊忠一さんがどことなく満足げな顔をしているのは、もう殆ど船体は出来上がっていて、あとは甲板を張ったり飾り物の細工をしたりと言う楽しい作業が残っているだけだからだ。どことなく、あとは西門寺君のお手並み拝見だね、と言う風にも見える。なぜなら、帆の部分はぼくが造る約束になっているからだ。

この舟で一番迷ったのが帆柱の位置である。棟梁は帆船については全く経験がなく若い頃、帆掛け船を一度だけ造ったことがあると言う、帆船と帆掛けとでは帆柱の位置が違う。しかし、帆船も一枚帆ではジブセールを持つヨットなどとはマストのこれまた位置が違う。その上、帆船にはバラストキールがない!転覆したら復元力はないと言う代物である。キミならどうする、ああ誰かおせーて欲しいもんだ!

兎にも角にも、マストの位置をエイヤで決めて船体はほぼ出来上がった・・・もう後戻りできない状態で、帆の部分を担当するぼくの出番になってしまった。このようなことだったので、ここ暫くは模型の帆を造り風の強い日には浜にでていろいろとテストを繰り返していたのだ。

・・・う〜ん、まだまだこれからがこの帆船の正念場なんだけれど・・・

この話続きます。

明日から師走・・・このテーマを今月中にまとめなきゃと思っている。

・・・う〜ん!と唸っていたら、土佐の天狗こと芝藤さんが助けてくれた。やはり舟繋がりはいいね、なんてったって「助け船」だからね。
URL→ http://diary.jp.aol.com/applet/556hcmcxuny/20061130/archive
話しは一転して、この際また土佐へ行き、いろいろと教えていただくことになった。師走には寒い12月から一路南国土佐へ。
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2006年09月13日

時にはTV取材をお断りなんかして・・・

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みんなうれしそうな表情をしている。美しいお嬢さんと一緒にいるからだけではない。このショットはテレビ愛媛の中継が終わった後に看板女子アナ小林咲夏さんを囲んでパチリしたものだ、しかも、彼女の方から「みなさんとご一緒させてください」とお願いされて居並んだ。このようなことはめずらしい。

夏の間に瀬戸内和船工房はテレビに出演する機会が多い。取材目的の大半は名工、船大工棟梁渡邊忠一さんの匠の技を紹介することなのだが、時には櫓船を押す(漕ぐとは言わない)ところを中継したり、「なぜ和船を造るのですか?」などど答に窮する質問を浴びせさせられたりする。

話しはワープする。

テレビ取材はほとんどが傍若無人な振る舞いの上に成り立っている。その傲慢さはメディア権力を持っているからに他ならない、「テレビに出してやるよ」「あんた出たいんだろ」と声に出さないだけである。

正直言って、この手の押しつけはいらない。ぼくらは取材陣の基本的な姿勢に同意出来たときにのみ、出演協力することにしている。いままでにテレビ出演を幾度となく断った。先週も某バラエティー番組のエサにされるところだったが、「ぼくらはお馬鹿さんではないよ」と言って怒気を含めお断りした。

どんな理由があってバカ番組のために、わざわざ櫓船を浮かべてタレントを乗せて押さなきゃならないのだろう、そのためには平日に少なくとも6人のスタッフをこちらは集めなければならない。予算はあるのかと訊ねたら、無いと平然と言う。

いまさらテレビ屋に道を説くつもりはないが、自分の仕事に少しはプライドを持ったらどうだ。誰がアホ番組製作のために自腹を切ってまで協力するか、おととい来い!

とまあ、普通はこうなんだが、過日のテレビ愛媛の実況中継だけは違っていた。クルーが活き活きして仕事をしていた、自分の職業に誇りを持っている人たちの振る舞いだ。リハーサルの時にアナウンサーが靴を履いたまま誤って水に足をつっこんでしまっても平然として続けていた(キャッキャ騒がしい何処ぞの軽薄アナとは違う)。

この中継には緊張感があり整然としていた。メッセージが的確でその意図がダイレクトに伝わった、僅か数分のこの中継を見た知人は、ぼくが船を造って何をしようとしているのかが初めて判った、と言ったのがその証左だ。

プロデュサーの躾けがよいのかも知れないが、スタッフの感じもとても良かった。冒頭の集合写真が所望され、一同畏まり収まった写真が女子アナから送られてきたことなんか前代未聞だ、なんと礼儀正しいことか。(ぼくなんかあとでデータ送りますなんて言ってもほとんど撮りっぱなしだもんね!

テレビ屋も未だ捨てたもんじゃない・・・
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2006年09月01日

土佐の高知 浦戸船大工棟梁

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高知へ和船を見に出掛けた。芝藤さんのブログ http://diary.jp.aol.com/556hcmcxuny/ がご縁である。今回は1泊旅行だったけれど、中身の濃いものになった。

写真は浦戸の船大工棟梁弘光さん(78歳・左)と伯方の船大工棟梁渡邊さん(74歳・右)、二人の間の船は現在芝藤さんが手掛けているもの(その様子は芝藤さんのブログでご覧じろ)メモリアルな2ショットである。

浦戸湾に浮かべる船は高い波を意識しなくても良い構造なので、船首が低く抑えられいて長さの割には胴太であり、釣り遊びなどには使いやすそうな形だ。

土佐の歴史資料館では収蔵庫に格納されていた四万十川の三枚舟を見せていただいた、三枚舟とは、底板と棚板(側板)二枚で造られている船を言う。川舟は大中小の三杯造られていて、恐らく舟降ろしで浮かんだ後は未使用のサラだ、余りの美しさに「隠し撮り」も忘れて見入ってしまった。こんどは許可を貰ってちゃんと撮影しよう。

仁淀川の川舟も幾隻か現物を見ることが出来た、こちらは川舟にはめずらしく五枚構造だ、五枚舟とは言わない、和船はおおかた五枚の板で造られているものなのだ。川舟は吃水が浅い方が使いやすいので三枚にするのが一般的だ。

何故、仁淀川の川舟が五枚なのかこんど現地の人に伺ってみようと思っている。

こちらは、こんど三枚の一丁櫓を造ろうと思い始めている・・・
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2006年08月20日

遅ればせながら・・・

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「戦闘海域」は1週間も前に終わっていたのだが、相変わらずのものぐさで未だ瀬戸内和船工房のホームページに競技リポートも出していない・・・疲れちゃったのであるよ。マッタクだらしないね。

・・・三艘の舟が一斉にスタートし、それはあたかも村上水軍が海働きしているような絵巻が目の前で再現されたのだ!レースの中である時には真ん中の舟が頭一つ飛び出したときなどは、まさに「海上挟撃戦」そのものに見えた・・・ここは村上水軍の「海郷」なんだなあと、数瞬の間、ぼくは歴史を遡り物語の中に入っていたような真夏の出来事だった。

ぼくのわがままにたくさんの人が長い間一緒になって本気で頑張ってくれて、夏の海に素晴らしいドラマが生まれた、みんなに感謝感謝。本当にありがとう。
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2006年07月26日

脈絡ないけど・・・

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いささか旧聞になるけど、「隼」「尊」「曉」の三杯が揃ってフレームに収まるのは最初の出来事だ。まもなくこの三兄弟は戦闘海域で骨肉の争いを繰り広げることになる・・・このスリーショットは7月22日の朝、NHKニュースで全国に紹介されたシーンである、舟は早朝の陽に黄金色に輝きとても美しかった。

和船は幾度見ても美しい(と、ぼくは思っている)、かたちの美しさはもとより、理知的な流線曲面や流体力学の美しさとか、適材適所のいろいろな木質が組み合わされた肌の美しさとか、舟釘が穿たれたリズミカルな目隠とか、平面と直線とがほとんど無いもののかたちが生み出す緊張感とか・・・匠の洒脱、かたちのエスプリ、午後の紅茶・・・おお今朝はまたなんて詩人なのだろう・・・ついでに戯れ歌を詠んでみちゃおう。(一種のワープかな)

早緒切れ海に投げ出された船頭見栄はって詠む「もんどりうてばなみのまにまにみえつかくれつ富士の高嶺よ」と、これは駿河の船頭。高知は桂浜の船頭が落水したら「月の名所は桂浜鯨潮吹き海生温し」ってなところかな。

久々のブログ、目下のところ連日「鵜島一丁櫓競漕大海」の準備に追われ大わらわ、こんなに忙しくするんじゃなかった、トホホ。小人閑居して不善を為す、よく言ったものだ、拙僧西門寺暁海、これ全くの不全じゃ。
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2006年07月11日

鵜島一丁櫓競漕大海

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取り敢えず、鵜島一丁櫓競漕大海のオフィシャルTシャツをご覧じろ。アディダス黒のTシャツに胸元に瀬戸内和船工房と舟宿ひなのロゴ、背中には四杯目の二丁櫓帆船のシルエットです。「大海」(大会のつもり)は最初1日だけの予定だったのですが、12日に予選、13日に決勝戦と2日間に渡り開催することになった。「戦闘海域」なんちゃって、気分はすっかり海洋劇画調なのです。
「神戸伝馬船競漕会」とは、旧神戸商船大、現在は神戸大学海事科学部の伝馬船同好会のみなさんです。もちろん優勝候補筆頭の面々です。
なんか、話しがワープしてますね・・・
またゆっくり書きます。ではねの西門寺
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2006年05月24日

村上水軍の里「鵜島」で開催「一丁櫓伝馬船競漕」

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(写真:瀬戸内和船工房の仲間、神戸大学櫓櫂伝馬船同好会の冬期練習スナップ)

今年、2006年8月12日(土曜日)に愛媛県今治市宮窪町宮窪、通称「鵜島」の南側海域にて「一丁櫓伝馬船競漕」を開催する。この「鵜島」こそその昔、村上水軍の造船所が在った島なのだ、水軍所縁の島で櫓競漕。

因みに、瀬戸内和船工房の船団基地「舟宿 鄙(ひな)」は、何を隠そうこの村上水軍造船所跡地に建設される予定なのである。

それは兎も角、7月上旬には待望の三杯目の一丁櫓「曉(さとし)」が進水するので、「隼」「尊」そして「曉」の三艘の舟があれば小規模ながらも伝馬船競漕が開催できる。そりゃ、景気づけに水軍レースをやらない手はないぜよ!

船小屋の建設準備のために、先月「鵜島」の隣の島「伯方の塩」で有名な「伯方島」へ引っ越してきた。伯方島からならフェリーで鵜島へ10分程度のところだ。ほとんど毎日鵜島へ通っている、島の人口は38人の小さな島だからすぐ顔見知りになってしまう。

ぼくも最初は人見知りするけれど人なつこくてすぐ慣れるから、誰とでも友達になってしまう、島の人たちとアレコレと話しをしているウチに「伝馬船競漕」をやろうと言うことになった。

「鵜島」の猛者は2005年の「水軍レース」覇者である、「水軍レース」と言えば「ザ・レース」と言われる全国規模の櫓船競漕の大会である。そのビックなチャレンジカップを昨年の夏は人口38人の鵜島が奪取した。このニュースは全国の津々浦々を駆けめぐり、「瀬戸に鵜島あり、鵜島に疾風あり」の噂をのこした・・・それやこれやで村上水軍の末裔が燃えている。

「一丁櫓競漕」、これぞまさに真の王者を決める競争だ、何故なら、「水軍レース」は五丁櫓を10人で漕ぐ団体戦なのである、それに比して一丁櫓競争は個人戦なのだ。

今も昔も真の王者はひとり、その真の王者を決めるのがこの夏鵜島で開催される「一丁櫓伝馬船競漕」である、乞うご期待。

尚、この一丁櫓競漕は招待参加方式なので、誰でもエントリーできるわけではない。参加資格は五丁櫓団体戦の「水軍レース」の成績で決められることになる。スポンサーは「舟宿 鄙」なので、「鄙インビティーショナル」と言ったところか、お楽しみにね。





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2006年04月13日

「舟降ろし」と「甲羅上げ」

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二艘目の櫓船「尊」(たける)が進水しました。船小屋の建設は暫く時間が掛かりそうなので、取り敢えず先に進水した「隼」(はやと)と材料置き場に居並んでいます。この写真では良く解らないのですが、昨年の12月進水した「隼」(下)と今回進水した「尊」(上)の木質色が微妙に違っています。僅か4ヶ月の時間差ですが、「隼」の船体には時間が感じられて僅かに気色ばんでいます。

4月末には、三杯(艘)目の櫓船「曉」(さとし)甲羅上げ(船の起工式のようなセレモニー)も終わり、夏の初めには三杯の兄弟櫓船が揃います。船は暫くチューニングされて、夏の終わりのころには船小屋建設予定地の海域で櫓櫂競漕を開催する予定、連休も終われば、間もなく海の季節です・・・
posted by さいもん at 14:33| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記

2006年04月02日

国立公園内の船小屋!

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まさに「どうするつもり」になってしまった。瀬戸内和船工房の船小屋を建設しようと、二年間掛けて探し、その結果最も理想とする素晴らしい場所が見つかった!バンザイ!バンザイ!で三月の分録(ブログ)ははしゃいで閉めた!。

好事魔多し、日に焼かれた灰色の木質がまぶしいクラシカルなぼくの船小屋は、実現するとすれば、そこは瀬戸内海国立公園の中に生まれることになるのだ。ウソだろソレ、そんな大袈裟な・・・国立公園の中ってお行儀良くしなきゃいけないのでは・・・もしかすると。

マ・サ・カ、その様な大それた貴賓席のような場所でなくともイイ、ぼくとしては建設許可を仰がなければならないような折り紙付きの名勝地でなくとも良かったんだけど・・・その様な場所とはつゆ知らず、土地を手に入れてしまった!

土地登記の直前に友人から指摘されてビックル飲み干した!宅地には違いないけれどその場所は国立公園内なので、そこは猫の額程の土地に適用される都市計画法なんかない、頭上に電線などない「天が土地」なのである。

果たしてこのような敷居の高い天孫が降臨する(古いね)ようなところに、船小屋とか番屋とかニシン小屋とかストリップ小屋とか建てても良いのだろうか・・・どうしよう・・・友人が言うには、瀬戸内海の国立公園内に別荘など聞いたことがないと言う、それホント!

こんな素晴らしいところに本当に船小屋建設の許可なんて降りるのだろうか。

瀬戸内和船工房危うし!とか何とかいっているうちに、待望の二杯目の櫓船が4月12日(大安の大潮)に舟降ろし(進水式のような儀式)があるのだ。船は年間に4杯のペースで建造される、国立公園内の船小屋が速やかに出来ないと船を舫う浜辺すらなくなってしまう・・・どうしよう。
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2006年03月03日

船小屋

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 もう弥生三月になってしまった。まったく早いね、時の過ぎるのは・・・なんて思っている今日この頃、皆様如何お過ごしですか?(知る人ぞ知る、早出しの「如何お過ごしですか」なんだね!きっこちゃん許されてね!)

 二ヶ月以上の空白があったのだけれど、この間三日坊主なんてものじゃなくて1回こっきりで冬眠状態だったので、友達からは「どうするつもり」などと糾弾されていた!坊主が三日だったら止められないらしいけど、三日坊主は飽きちゃうから止めちゃうのだね・・・オットなんだかワケがわかんない。

 さて、この二ヶ月間は実のところブログをかきくけこしている場合じゃなかった、何故かというと、あっちこっちと「瀬戸内和船工房の船小屋」の建設予定地を探し回り、その結果幸にも最も理想的な入江を見つけて(TOPの写真が現場です)、その土地を譲って頂けることになり早ければ今月末にも「鍬入れ式」にこぎ着けようとするところまで事が運んだのである。その様なことでブログがおろそかになってしまった。

 船小屋を建てると言って、ただ単に艇庫を作るのじゃつまらない。瀬戸内和船工房のキャッチフレーズが「海・人・歴史の物語」なんだから、面白くなきゃいけません。船小屋は「誰でも櫓漕体験ができる!」ような楽しめる場所にしたい。

 ぼくがイメージする船小屋はワイエスが描く風景の中に出てくる納屋のような、長い年月の陽に焼かれて銀色に輝く木小屋だ・・・潮風に風化した腰板、やせ細った柱、隙間から漏れさす夕陽・・・素足で暮らす船小屋・・・なんか考えただけでも憧れる。

 今日はここまで@西門寺 南妙法蓮華経

 

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2006年01月02日

「船大工消滅の危機」異説

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 暮れの28日付け全国各地の新聞に、タイトル「木造船大工が消滅の危機」で配信記事が掲載された、以下にその要旨を記述する。

 鳥羽市「海の博物館」の調査は、「和船は需要がないので後継者が育たない、木造船を造ることができる船大工が2005年には全国で240人ほどになってしまい、このままではあと数年で木造船大工の技術は無くなる。」と指摘している。

 当該の記事は、博物館の調査概要をリポートすると言うかたちで、具体的に何かを訴求している訳ではない。読者責任(なんて言葉があるとして)で判断してくれ、とでも言いたげで、内容に関しては責任がありませんと示唆する昨今のノンメッセージジャーナリズムである。

 どうやら、この記者は「瀬戸内和船工房」をご存じないらしい、無理もない・・・。それはさておき「船大工が消滅」というタイトルを読み、船大工さんより先に日本語が消滅して行こうとしている現状を嘆かなければならない。

 「消滅」するのが「和船」ならいざ知らず、船大工さんが「消滅」などとものを指すような言葉を使わないで頂きたい、とても失礼ではないか。

 職人さんには人格があるのだから、「去りゆく」とか「跡絶える」とか人間の体温が感じられるような表現が出来ないものか。いつの間に職業がものに例えられるような即物的文化が蔓延してしまったのだろう・・・ったく。まあ、さう言ふこっちの日本語も怪しんだけどね・・・

 と思う今日この頃、皆様いかがお過ごしですか。ここで閑話休題。

 昨年の夏の初めに、和船調査のメッカ「海の博物館」を訪ねた。・・・展示されている木造船コレクションが船の数だけ海との物語を囁いてくれる・・・歴史のなかに宿る夢を感じたかったらこのようなドラマティックな博物館でゆっくりと時を過ごせばよい。

 館内を見学している内に、せっかくだから瀬戸内和船工房の宣伝もしたいと思い石原館長をお訪ねした。館長はお忙しい折にも関わらず時間を割き話しを聞いてくれた上に、和船調査の資料などもたくさん頂戴してしまい感謝感激。

 ぼくは決して、瀬戸内和船工房を立ち上げて和船文化を護ろう、なんて考えているわけではない。ただ和船が好きだから造ろうとしている、造ったものは売らなければまた造れない・・・その結果、和船と船大工さんは歴史の舞台から去って行くことはない、と言うことになる。

 ところが、石原館長は和船は消えゆく運命にあるという、消えてくれなきゃ博物館が成り立たないので困ると、悪戯っ子のような顔をして仰った。う〜ん、言えてるなあ、まさにその通りなんだね。かるい自虐とエスプリとの狭間に漂う研究者の意志がかたちになった博物館・・・

 石原館長のジョークをぼくが勝手に解釈すると、なんとまあ「瀬戸内和船工房」はこの名門博物館と対極に位置すると言うことになる。なんかすごいね、おれっちは。

 余談ながら、この博物館は建物が素晴らしいことでも有名である、でもこの話は何れに機会にしよう。関心のある方は、海の博物館ホームページをご覧じろ。

 話しを戻す。新聞によると船大工は危機らしい、しかしそう考えることはもう正しくない。何故なら、和船も船大工さんもこれから先存在し続ける。その一つのかたちが「瀬戸内和船工房」なのだ。全国の和船造船所バンザイ!

 もちろんその対極では、古い時間と共に過ごしたオブジェや物語が博物館の空間に漂いながら存在し続けるのである。「海の博物館」バンザイ!

 年頭駄文とて、めでたしめでたしで結びたい。
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