2007年07月31日

明けても暮れても帆のことばかり。

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写真は、帆船ひなの進水式が終わり造船所のある伯方島から艇庫のある鵜島へ回航し、浜に曳き揚げている時に撮影したもの。「ひな」にとっては最初の揚陸である。

白いロープの先には10余人の人間と4枚の滑車があり、「ひな」を牽引している。力を込めて砂浜を曳いたのだが、船底とレールの間に砂が噛んでしまい重くて難儀した。見かねた島の人々が驟雨の中ずぶ濡れになって手伝ってくれて、ようやくのこと庭先へ曳き揚げた。

その昔、木造船は毎日漁を終えたら巻き揚げ機などで曳き揚げられた。船底に海藻や貝などが付着しないようにするためと、海水温が高い夏の間にはフナムシが船底に卵を産み付け孵化すると、木質を食い荒らし高価な舟に穴を開けてしまうからだ。

木造船の時代は一月に一度ほどは舟を船台に上げ、船底を杉葉のたき火で燻し船虫退治をした、これを「たでる」と言う。当時は船底塗料などのない時代だから手間が掛かることおびただしいものだった。

しかし、手間が掛かる分木造船は塩水のために腐敗しにくく、百年以上も使えたと言われる。安芸の宮島は厳島神社が四百年も水中に立っていることを思えば、海水と木の相性の良いことがお判り頂けるでしょう。

木造船の船体はこのように世紀を超えて残るが、反面、帆布や帆桁などの艤装は風化してしまい余り残らない、帆や麻縄は潮風でぼろぼろになり消えてなくなる・・・往事のものは博物館でも収拾できていないのである。そのようなことだから、帆を再現するのはえらいことだ・・・

ジェット旅客機は胴体や翼や内装を作るエアフレームメーカーと推進力を担当するエンジンメーカーとの合作で作られている。ジェット機とぼくの7メートルばかりの木造船とを比喩するのも少し気後れするけれど、帆船も船体部分とエンジン=帆とが別々に作られる。

明治時代の1枚縦帆を再現しようとしているのだが、小型のものになってしまうとほとんど資料がないと思った方が賢明であり、古い写真とか絵に描かれた船影とかを頼りにするしかない。どうすればいいのだろうね。

船影と言えば、四国の金比羅様は全国の船主が御新造船の航海無事を祈願して習い模型や絵馬を奉納することではつとに有名だが、いかんせんそこにも小型帆船の絵馬などはほとんどないない・・・

帆は櫓と同じに「揚力」を推進力に変換するエンジンである。もっとも、真艫(マトモ、すなわち舟の進行方向に吹く順風のこと)の時は櫂と同じで揚力でなく抵抗力を推進力に換えるのだけれども、抵抗力はエネルギー変換効率が極めて悪い、力学としては余り美しくない・・・

帆に魅せられるのは、エネルギーの変換がスマートだからかも知れない。風上へ切り上がりながら進むなどと言う芸当は揚力ならではの力学だからだ。このへんのところはヨット乗りとかでないと実感できないだろうなあ、揚力には得も言えぬインテリジェンスがあるんだよね。

その昔の揚力エンジンの代表選手と言えば中国沿海州を走り回った「ジャンク」だろう、大航海時代の横帆を幾重にも揚げた西洋の大型帆船も揚力やら抵抗力やらオールやらで進んだものだが、ジャンクは帆と櫓とで航海したのだろう、多分。その姿を想像するだに美しい・・・

次に生まれてくるときは、沿海州は上海あたりに拠点を置くシナの海賊船頭で生まれてきたいものだ!ジョニーディップ扮するパイカレ船長のような人生も悪くはないけれど、ジャンクの美しさにはカナワナイだろうとも。

ああ何故、帆走には奥深いロマンがあるのだろうね。とまあ、帆のことばかり考えていてブログもおろそかになり、困ったもんだ。八月にはいよいよ微風時に帆を揚げて試験をする、どうなることやらだなあ・・・何かとりとめもないね、このところは・・・

ここから先は、8月3日に書く

ことしは台風4号も5号も瀬戸内を脅かしたが、いまのところは我が瀬戸内和船工房も舟宿「ひな」も無傷だ。4号の時に裏山の土石が1トンほど崩れ落ちたが、予め土手を積み上げておいたので計算通り土塁が土石を受け止めて事なきを得た。

5号の時には、深夜の満潮時に台風がシンクロして高潮になったが、16mmのロープで係留した浮きデッキが船小屋を直撃することもなかった。まあ、そのうちに裏山がでっかく崩れたり、大波が船小屋を直撃することもあるやも知れん・・・どでかい地震だって今夜来るかも知れん。そう、なるようになるのさ。
posted by さいもん at 15:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記