2013年01月04日

311以降二度目の正月

311福島原発事故以来、何かしら日に日に不透明な時代になってきて、政府にもマスメディアにも不信感が増すばかり。こんな時にこそ自分の言葉で自分の考えて行動しなければいけないなと思うことしきりです。

冷静に考えてみれば、マスコミの”原発の安全神話”と言う便利な言葉も、”原子力ムラ”と呼ぶのと同じであり、対象を抽象化しその責任を意図的に不明確にするマスコミの方便のような気がしています。

過酷事故なんて言うけれど、フクイチはやるべきことをやっていなかった手抜きが原因で有り、管理責任を問わなければならない重過失事故だ!それは航空機の墜落事故のように原因究明のために機長以下免責を与えると言うレベルのアクシデントで無く、フクイチは安全確保の出費を抑えたことが原因だ。

何のことは無い、原子力技術という名の”似非科学”を利用した原子力村という”利権集団”の大規模な詐欺事件のようなものであり、災害事故対策を怠ったケチな経営者の陳腐なお粗末な田舎芝居なのだ。

間もなく事故後2年が経過しようとしているのに、被災者にとっては殆ど何も有効な救援対策が取られないままに今日に至る。自然界を支配している法則にはウソが無く、フクイチが再臨界に達することもあり得ると言うことを肝に銘じておくべきだ。

2013年正月
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2011年04月02日

暫くお休みです。

東日本大震災の被災者の方には心からお見舞い申し上げます。

このブログも間もなく、三年間のブランクだというのに、いまさら「しばらくのお休み」でもありませんね・・・

二年前の夏、帆を上げて瀬戸内海を帆走して以来、いろいろな出来事はあったのですが、ブログを書くことをほったらかしにしていました。このブログは、瀬戸内和船工房の歳時記を書き留めておこうと始めたものなので、いろいろなことをマメに書き留めて置かなければならないのですが・・・トホホなことでした。

この間、船のことではいろいろな事故・事件が発生しました。特に昨年の夏は災難続きで、和船の舵を浅瀬で折ってしまったり、ヨットをデスマストしてしまったり。まあ、それでも怪我もなく不幸中の幸いでした。

この五月からは気分一新して、新しい帆を組み立てたりしようと考えている矢先に、大きな地震が来てぼくの故郷二本松も大被害でした。ここしばらくは瀬戸内のことは棚上げにして、故郷の復興のためにエネルギーを使いたいと考えています。

何をどうするか?決まり次第このブログでもお知らせします。

それでは皆さん、ごきげんよう。

瀬戸内和船工房 西門寺 暁海 (松下 哲雄)

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2009年08月21日

「ひな」快走

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いささか旧聞で恐縮、去る7月19日に瀬戸内海の小島、弓削島にて「瀬戸内ヨットミーティング」が開催された。帆船「ひな」も処女航海から2年目の夏を迎え、帆艤装も幾度かの改良が施され操船性能も向上して来たので、ヨットミーティング海域で公開帆走することになった。

遙か昔の小型帆船を再現した「ひな」が現代のヨットレースのなかに「闖入」するシナリオである!ナニが起きるかお楽しみ!

レースが行われる弓削島松原海岸迄は「ひな」の艇庫がある鵜島から凡そ10海里の航海。当日の朝の潮流は前半が連れ潮(潮の流に乗り進むこと)後半が向かい潮(潮流に逆らって進むこと)だ。

行程5海里ほど進んだ辺りに潮がぶつかり合い複雑な流れを作り出す難所があり、航海の前半は追手風満帆と補助エンジン機走とで凡そ10ノットほどの快走だったが、後半は潮の流れに逆らって進ので極端に艇速が落ちる。

進行方向左手に佐島が見えてきた頃、潮の流れが変わり向かい潮と追い風が作る三角波が行く手を阻む、風は3〜5ノットの追い風だが潮流は3ノット程度の向かい潮、「ひな」は進んでいるように見えるが左手の佐島が一向に動かない。

それではと、潮の流れが弱い佐島の海岸線近くに進路を取り直した、追い風も弱まったが補助エンジンの推進力では5ノットそこそこの走りである。このようなことで、弓削島へ辿りに着いたのは鵜島を出てから1時間半余りのことである。

「ひな」は10海里の航海を終え、レース海域に乗り入れた。こちらはレースにエントリーしたわけでもないのでマーカーを目指して帆走しているレース艇に邪魔にならないような場所でのんびり帆走しているだけなのだが、ユニークな船体がとても目立つ。

取材クルーを乗せたTVカメラ搭載艇がめずらしい形の「ひな」に接近して来る、近寄ってきたレース参加艇ともエールの交換をする。洋上で挨拶しながらあちこちと気ままに帆走しているウチに風が強くなり始め、「ひな」は縮帆し機走に切り替え、支援船のパワーボート共々松原海岸沖に停泊した。

この日は松原海岸の海開きでもあり、午後のイベントのひとつに子供達を「ひな」に座乗させ「櫓船体験」楽しんで貰うプログラムがある。櫓漕のために補助エンジンを取り外し二丁の櫓が着装され、「ひな」は帆走クルーから櫓漕ぎクルーへと入れ替わった。

櫓船体験は「木の船」を見たことのない子供達に大評判、子供と一緒に乗船したお父さん達も櫓漕ぎ体験を楽しんでもらい、大いに楽しんだ一日を過ごしたのです。

好事魔多し!帆走クルーと櫓漕ぎクルーとが入れ替わったそのとき、クルーの一人が沖合に助けを求めるカヌーを目撃した。ヨットレースが終わった時刻から西風が強さを増し、カヌーが転覆したままどんどん沖合に流されている!

帆走クルー、と言ってもぼくと嫁さんのペアなのだが、ぼくと櫓漕ぎクルー(鵜島の櫓人と神戸大櫂伝馬クラブOB)の三人が「ひな」に乗り込み、嫁さんを陸に残し救助に向かった。

のろけ話みたいだが、彼女を陸に残したので大事にならなかった、そのことは後述するが、二重遭難を未然に防げたのだ!さて、救出劇の一部始終をお話ししましょう。

鵜島の櫓人こと「逸ちゃん」は鵜島生まれの鵜島育ち、現在は今治市内で船舶会社のオーナーだが、櫓船を漕がせたらこの人の右に出るものはいない、そればかりか、エスキモー並みに眼力がある。遙か沖合で波のまにまに見え隠れしている白いものが転覆した舟と助けを求めている二人であると解ってしまうのだ、これぞ正真正銘の海人櫓人!

東の沖合に流されている、転覆して波間を漂う二人は直線距離にして500メートル程だろうか。こちらが救助に向かおうとする前に、その海域に他の船はいない、ヨットレースが終わりほとんどの動力船が、島の反対側にある弓削港に回航したらしく、広い海原には遭難している二つの白い船体にしがみついている二人だけ、その遙か沖合を大型船が航行しているが10海里も先だ!

「ひな」は櫓漕ぎ体験のために船外機の補助エンジンを降ろしているので、遭難現場に行き着くためには帆走するのが最も早い。遭難者は東南の方向に漂っている、「ひな」は右後ろからの追い風を受けてドンドン進み現場に到達するのに5分と掛からなかった。

果たして、一人乗りのカヌーが2杯転覆していて、若い男の子がそれぞれにしがみついていた。帆を下ろして船足を留め「ひな」に遭難者を引き揚げカヌーを2杯繋いで、櫓漕で帰航しようと試みた。

その時間、潮の流れは沖合南から東、風は向かい風の西から東、五人が乗り込んだ「ひな」は沈み込み船足が極端に落ちる。その上向かい潮と向かい風である、舟は進むよりも風に押し戻され潮に流される方が強くどんどんと沖合に流される・・・このままだと二重遭難しかけない。

船外機を積んでいれば機走して帰航出来たかも知れない、帆を上げても潮の流れが早くて陸からは離れてしまう。こうなったら携帯電話で救助を求めるのが、賢明である。

文明の利器!マサカの時の防水携帯電話!神様仏様奥様!ぼくはカミさんに助けを求め、鵜島の櫓人はヨットミーティング大会本部に救出を求めたのである。

最初にカミさんの乗ったパワーボートが到着して「ひな」を曳航した、風は益々強まり波頭が白く砕け始めて海は荒れ始めこうなると曳航するのも簡単ではない、程なく大型の警戒船も弓削港から現場に駆けつけたので、2人の遭難者に「ひな」から警戒船へ乗り移って貰い舟を身軽にして松原海岸に帰港した。

上陸して海を振り返ると海原は立派に荒れていて、鵜島の櫓人が彼らを見つけなかったらかなりやっかいなことになっていたなあと、思ったのでした・・・まあ、一件落着かな。
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2009年04月04日

ご無沙汰・・・恐縮・・・

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↑ この写真は神戸大学の伝馬船同好会のメンバーが鵜島で09年春の合宿を行ったときのスナップである。鵜島の南海域で帆走訓練した後に、帆を降ろし櫓を立て能島の潮流を漕ぎ渡り、いま当に村上水軍城址能島へ上陸しようとするところ。クルー全員が接岸地点を凝視してしている、接岸こそ船乗りの技量が試されるところなのである。

そうそう、アッという間の半年でした!ブログを書く材料がなかったわけではなく有り過ぎるぐらいだったのだが、書く気がなかったみたいです。ブログ書いているよりもドラマチックな海の物語が有ったものだから、充足されちゃってすっかり疎かにしてしまったのである。一息ついたのでここで数日で半年の出来事を書き上げることにしましょう。

↓ 下の写真は昨年10月初旬、未だ帆桁が艤装されていない「ひな」が艇庫からスロープの上を曳きだされて洋上に浮かんでいるところ。後ろの建物は舟宿「ひな」(と言っても御宿「かわせみ」のような美人女将がいる訳でもなくまして宿屋でもなく、舟の番小屋である)と瀬戸内和船工房の艇庫、季節は秋の晴れた日、瀬戸内の離れ小島にはいつでも静かな時間が流れているような海がある・・・・

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↓ 三枚目の写真は帆柱を立て一枚帆を上げたときのスナップ。夕凪の時間は風が殆ど無いので帆を組み上げて艤装の確認を行っているところ。船尾に座乗している人影から舟の大きさが測れると思うが、帆船「ひな」は一枚帆二丁櫓帆柱高6m80cm艇長7m40cm幅2m10cm総重量1200kg定員7名の純木造船である。

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↑ いまは砂浜に座っている状態だが、満潮になると舟は浮き上がり航行することが出来る状態になる。木舟なので昔からそうしていたように砂浜に曳き揚げておかなければなりません、長時間海水に浸っていると船虫に喰われて船腹に穴が空いてしまうのです。おおなんと恐ろしい!

さて、帆走の話しを続けましょう。「ひな」などと可愛らしい呼び名が付けられたけれど、彼女の形は源平合戦の時代の戦闘艇なのである。

↓ 下の写真で説明すると、「ミヨシ」(前甲板、クルーが立っている場所)に楯を置き弓を引く場所である。「ひな」の場合には櫓が二丁付いていて面舵櫓(右舷)と取舵櫓(船尾)である、従ってこのタイプの舟は挟撃戦の場合に左舷側に敵の舟を見て戦闘する攻撃力が優れている。弱点は右舷である、敵船から右舷に寄せられると面舵櫓が使えなくなってしまい、運動能力が半減する。

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まあ、この様な源平時代の海戦をのことを考えて戦闘艇を再現したわけではないのだけれど、二丁の櫓を使い「ひな」を漕いで見ると源平時代の海戦がイメージできるので述べたまでである。

帆柱を建て帆を上げて風を入れ海の上を走ってみるといいろいろなことが見えてきて面白い、そのお話しはコラムを替えて続けます。


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2008年10月20日

「ひな」帆走

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バンクーバーではこのような日を「インディアンサマー」と呼び、小春日和には未だ少し早い秋晴れの穏やかな一日のこと、瀬戸内海で愛艇「ひな」はやわらかな日差しとゆるい秋風を一枚帆に受け海面を滑るように走りだした。

小早舟二丁櫓帆掛の黄金色に輝く船体は水飛沫を上げて、帆船としての処女航海を迎えたのだった。ことここに至るまで、足掛け三年を費やしての帆走だった。船体の和船は源平合戦の絵巻物にも出てくるような戦闘艇「小早舟」に当時の一枚帆を再現した船である。

昔の舟を再現した酔狂を"どうするつもり"と言われそうだが、成り行きでこうなったまで深い意味はない。そのようなことよりもうれしかったことは、小型帆船「ひな」が設計通りの運動性能を発揮して安定したセーリングを見せてくれたことである。

「ひな」は一枚帆なので風上に向かってタックする「上手廻し」が出来なくて、風下にジャイブする「下手廻し」しかできないのだが、僅か3艇身ほどで反転する運動能力には艇を設計制作したぼく自身が驚いた!

ことここに至るまで、「ひな」の帆走は計画通り進まなかった、それは帆走処女航海が1年半も遅れてしまったことだが、なかなか思い通りに行かないこともあったし、生来が"ゆるキャラ"のぼくなのでなかなか進まないのだ。

「ひな」の基本設計はぼくが行い、板図(実施設計)と造船は舟大工頭領渡辺忠一さんが作事した、とここまでは二人の共同作業だったが、二丁櫓として進水した後、帆船艤装はぼくがひとりで担当することになっていて、詳細設計が大幅に遅れてしまったのだ。

中世の瀬戸内を走り回った小型帆船、と言っても絵巻物や屏風絵とか水墨画とか文人画などでしか見たことがない。そいつを再現してやろうというのだから、「見てきたようなこと」を行わなければならない。

山水画に小さく一艘の小舟が書かれている、その一艘の舟がなければ「画竜点睛を欠く」ことになる、ので、山紫水明に小舟は欠かせない。しかもその小舟には一枚帆が掛けられている。

子供の頃、よく遊びに行ったお寺の庫裡に掛けられていた掛け軸の中に描かれた小舟は透明感のある空間に漂っているかのように見えて、ぼくの淡い記憶に残っている。

マサカとは思うでしょうが、半世紀の後にその淡い記憶を再現したのが"「ひな」の帆走"なのです。コレ作り話みたいな本当の話です。

閑話休題

「ひな」の帆走ビデオはYouTubeで見ることが出来る、以下のURL

http://jp.youtube.com/watch?v=GAXal3qEziY

http://jp.youtube.com/watch?v=DzXNmsifukA

にて、ご覧じろ。今日はここまでこの稿続く@西門寺
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2008年08月09日

桜伐る馬鹿ことの顛末

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この間、つまり直前の5月ブログから3ヶ月間余り、桜の木が伐られてしまうのか!助かるのか!何ともやきもきした時を過ごした。果たして結果は桜の木は守られたということである。先ずはコレめでたしめでたしの一件落着だった。桜の木を守る署名に協力していただいた多くの人々にこころからお礼申し上げたい。皆様本当にありがとうございました。

承前

5月のブログから3ヶ月あまり過ぎたときの8月9日のブログの続き。

桜の木は15本のうち、水屋を作るためにどうしても場所が確保できないとの理由で、2本だけ伐採される運命になった。国際的な署名運動は大きな影響を与えた。

はじめはクリーンカット(全伐)する計画だったのが、地元の日系人をはじめ多くの人々の働きかけで日系人の心のよりどころであるオッペンハイマーパークの桜の木は救われた。

こんな嬉しいことはない、もう一度、ぼくの呼びかけに応えて署名してくれた皆さんに心から御礼申し上げたい。ありがとうございました。

さくらさくらのYouTubeをご覧じろ
http://jp.youtube.com/watch?v=jTAphbWTNIc&feature=related
日系人の桜に対する思いが良く出ている・・・

この稿、10月10日に書き終える。

今度からもう少しまめに書きます。西門寺
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2008年05月12日

サクラの木と日系カナダ人の歴史

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古びた一枚の写真、いまから30年余り前のこと、カナダはバンクーバー市内の公園に、日系人の手によりサクラが植樹された時の記念写真である。ここに居並んだ人々は日系移民一世・二世の人々なので、なかには第二次世界大戦時にカナダの強制収容所(*1)での暮らしを経験した人々もいる・・・

この写真が撮影された年1977年は、カナダ日系移民百年を記念していろいろな催事が持たれたが、ソメイヨシノを市内の公園などに植樹したことも重要な行事の一つだった。人々は誇らしげに日本のシンボルである桜花の中にカナダのシンボル楓の葉をあしらったTシャツを着て、手植えした。

果たして30年の後2008年、陽春に一斉に咲き誇り数日を経て散ってしまうサクラは今年を最後に伐採されてしまうと言う「春先の珍事」に遭遇しつつある。良く「櫻切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」と言うけれど、櫻枝を切るのではなく伐採してしまう何とも呆れた話しだ。

木を切る本当の理由は公園を改修するときに邪魔になると言うことらしい、2年後にひかえたバンクーバー冬期オリンピックに備えて、街を美しく整備しようと言うことが、ことの始まりだ。

行政当局はかたちばかりのコミュニティー関係者のヒヤリングを行い、あろうことか、「サクラの木が古くなり毒を発生させているから伐採する」などと支離滅裂なコメントを発している。

当該のサクラが植樹された公園は、バンクーバーの日本人街パウエル地区にある「オッペンハイマー公園」である。公園の名前を聞くと日本人ならギクリとする組み合わせではないか、「オッペンハイマーにサクラ」とは少し刺激的だけれどこれは全くの偶然である。

公園名の由来は兎も角、その由緒あるサクラの木を薙ぎ払うとする行政当局の施策は暴挙以外の何ものでもない。日系移民史そのものを侮蔑するような出来事である。事此処に至り、日頃は穏和な日系コミュニティーの人々もこの寝耳に水のような出来事に黙ってはいなかった。頼もしくも、若い世代が「サクラを守れ」と立ち上がったのだ。

「いまどきの若い人」が熱く燃えて、お父さんやお母さん達が手植えした日加友好のシンボルを守れと連携した。失われた世代とか醒めた世代とか言われているのは日本ばかりではない、がしかしこの国では若い人々が率先して行動した。

そのアクションプログラムの一つに、インターネットで「サクラの木を救うための皆様の署名活動」がある。この場をお借りして、皆様にも以下のリンクをクリックし、是非ともサクラの木を守るための署名をお願いしたい。
http://www.petitiononline.com/powell77/petition.html

ぼくもこの4月に訪晩(*2)した折り、サクラの木を守る関係者と会って運動の末席に参加させて貰うことにした。ぼくにとって、第二の故郷バンクーバーの地域コミュニティー活動に参画して、旧知と共に同じ空間にいることを感じ取ることができるなんて!何と30年振りの出来事なのだ。・・・いろいろな思いが込み上げてくる・・・

ぼくはなんとしてもこのメモリアルなサクラの木々を守りたい。仮に、行政当局の愚挙の挙げ句、歴史的遺産が踏みにじられるようなことがあっても、ぼくらはへこたれずめげずまたゆかりの地へサクラの木を植えてやるつもりでいる。

しかし、いまのウチの声を大きくしてサクラを守れば、カナダの民主主義はそれを受け入れてくれると思う。だから、みなさん是非とも署名をお願いしたいのです。

(*1)
日系人強制収容所についてカナダの名誉のためにも触れ述べておきます。1988年にカナダ議会は、日系人に対して行われた戦時強制収容が誤った政策だったと認め、被害者への補償を行いました。

(*2)
「訪晩」の晩はすなわちバンクーバー(晩香波)のこと。明治の日本人は倫敦、紐育、伯林、巴里などと二葉亭四迷のような当て字を楽しんだが、バンクーバーを晩香波と表記したことは秀逸、港町バンクーバーは夕凪が終わり、海風と共に潮の香りが漂い夜が更ける土地柄なのである。
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2008年03月19日

海の厳しさ

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最後に書いたブログが昨年の11月だったから、凡そ4ヶ月振りの独り言になるのだね、皆さんご無沙汰していました、如何お過ごしでしたか?なんてネちょっときまりが悪くもありますね。

極友(すごくワルのお友達)から「ブログどうした」との励ましを兼ねた消息メールが届き返事を出したら、「命運尽きたかもしれん」と半ば本気で思っていたようだ。

西門寺暁海こと船頭松を自称する小生は、昨年の夏の終わりに還暦を迎えた、団塊の世代ド真ん中の人生なのだ。暫くご無沙汰しているといつの間にか「お迎え」が来てしまった友人がいてもおかしくない齢である。4ヶ月のご無沙汰では「逝ってしまったか?」と思われても無理もないことなのかも知れない。

さて、空白の4ヶ月をまとめてご報告(と言って、決して頼まれているわけでもないけれどね)。先ずは冒頭の写真、有田キャプテンが率いる神戸大海事科学部(旧神戸商船大)の伝馬船競漕会メンバーである。ご覧のように、プラスチックボートに艪床を設えて櫓船を押している。

その昔、神戸商船大の古き良き時代には全員が櫓船を押した、当時は正課として櫓漕実技が有り、櫓船を漕げない学生は卒業させて貰えなかったらしい、尤も「竿三年艪は三月」と言って、三月も漕げば体が覚えてしまうのが櫓漕であり、それほどは難しくない。

現在の神戸大海事科学部では、「待った無しで世界の海を相手出来る強い人間を作るために」、「和船文化の存続」などと流暢なことは言わぬ。高度経済成長時代に船舶は大型化高速化して海上交通の危険度が飛躍的に増したから、のんびりゆっくり櫓船を漕ぐなんて場合じゃないのである。

にも拘わらず!と話はワープする・・・イージス艦の事故を見よ!ソルジャーにも拘わらず、弛みきったサラリーマン根性の船員が沢山詰めていたが、誰一人として船乗りの責務を果たしていなかったブリッジが存在したから、当然のごとく悲劇は起きてしまったのだ。

何故こんなことになっちまったのか、ぼくには解るような気がする。それは、軍隊式の団体行動教育ではないかと思う。スキッパーの号令で個性を廃して奴隷のように船を漕ぐカッターボート訓練のようだ。櫂の船は一人一人が推進力でしかなく、「判断力」を持った海の男を育てることはない・・・

それに比べて、神戸大海事科学部のメンバーが設立した伝馬船競漕会の連中は違う、一人一人が船頭の心意気を持って漕いでいる、そこが自衛隊のカッターボート卒業生と違うところなのだ。櫓船の船頭は海に出ると誰も頼らず、全身全霊を傾けて艪を漕ぎ、潮の流れと行き先を見定めて船を走らせている。

ことほど左様に、艪の船と櫂の船とでは違うのである。それはただ単に推進力が、艪=揚力と櫂=抵抗力との違いだけではない、個人と団体、自己責任と集団責任、前向きと後ろ向き、月とすっぽん、味噌とチョコレートぐらいの違いがあるのである。

誤解召されるな、ぼくはだからといってオールを漕ぐ人間がだめだとは言わない、櫂の船もスキッパー次第なのだ。イージス艦のスタッフはスキッパー役すら満足に果たせない、凡そレベルの低いサラリーマンソルジャーだったんだと思う。まあ、余り本気のソルジャーはほしくないけれどね。

おお、なんとこの度はポリティカルなブログでしょうね。ネグリが訪日できないらしいので、このぐらい毒づきたくもナルのであるよ・・・

と、先週ここまで書いて多少品位のない言葉で締めくくったのは拙かったな、まあ、腹立ち紛れに「アホ」などと書いたが、それは誰に向かって叫んだかで意味が違ってくる、余りポリティカルなリードはしたくないけれど、当局がこの度のことでネグリに勲章を贈った結果になったのだから、それを考えるとああやっぱり国際的にお馬鹿さんなのだねえと、呆れたりもしますね。ここは意味不明。

閑話休題

この1月松の内が明けた頃に神戸大の深江キャンパスを訪ねた、海に接したキャンパスにはグランドもあるが「ポンド」もある。ポンドとは船着き場で、そこには神戸商船大の時代から練習船深江丸が係留されていて、艇庫からはカッターとかカヌーとかセールボートとかがバンクから降ろされたりして海に出て行くのだが、未だ冬休みで教官の他は誰もいなかった。

このときに、旧知の教官に瀬戸内和船工房から二艘の櫓船をプレゼントしたいという申し出をした、それは快く受け入れられ2月下旬に船は工房から運び出された。嬉しいことに、櫓船を漕ぐ実技が正課に復活するそうである。

二艘の船のうち一艘は未だ進水式も終わっていない新艇だ、4月上旬に新学期が始まったら進水式を行う予定だが残念ながらぼくは欠席!明日から久しぶりで北米旅行に出る。

四ヶ月振りのブログはもっとリポートしたいこともあるのだけれど、なあに急ぐことはない。それは、瀬戸内和船工房がある鵜島に生まれた「鵜島有機農業組合」のお話や、ぼくの故郷安達太良山麓に作られる「あだたら高原チーズ牧場」の話だ。

ここ四年間ばかりは、伯方島で和船を造ることとその隣の離れ小島鵜島に「船宿ひな」と「瀬戸内和船工房」を建設するのに忙殺された、この間ブログを書く暇もないほど忙しかったのだが、いろいろと手掛けているうちに自然にやらなければならないことが見えてきた。まあ、決して急ぐことはないのだけれどね・・・

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2007年11月28日

冬の日本海

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温暖な瀬戸内から一路日本海へ出る、綾部で古い友達と旧交を温めた翌日は北上し舞鶴から日本海を左に見て金沢までひた走る・・・気象予報では、大陸からの寒気団が押し寄せこの週の日本海側若狭湾から北の方は、寒波による風雪で大荒れに荒れるはずであった。

しかし、予想に反してその週の日本海沿岸地方は時折小雨が降る程度で、あまつさえ青空を覗かせた。用心深く11月も半ば過ぎなので、伯方島でスノータイヤに履き替えて・・・

・・・とまあ、ここまで駄文してその先を書かずに一月近くも放置したこと誠に恐縮・・・話しを再開、さて何故少し早めにスノータイヤを着装したのか・・・

ことしは早速と11月中旬に日本海、東北、北海道の広い範囲で本格的な雪が降り山岳部は結構積雪が多く、スキー場の関係者からはうれしい悲鳴が聞こえていたからである。

スノーボーダーもスキーヤーも異常気象が「大雪の年」に振れるのではないか、と期待した。その翌週に冒頭で書いた「寒波と降雪の予報」である、親不知子不知を走り抜けるにサマータイヤでは不可能であり、新潟から会津へ抜け安達太良山の北側から岳温泉へ抜ける「日本のカイバル峠」は時としてスノータイヤ着装車でさえ立ち往生する難路だ、もとより土湯トンネルが出来るまでは毎年11月には閉鎖され春までは深い雪の下に冬眠する街道なのである。

これらの圧雪街道を猛スピードで走り抜ける醍醐味を味わいために、わざわざ寒波が襲う地方へと出掛けたのに、肩すかしの晴天続き。ものの見事に予報は外れなんとも締まりのない旅になっちマッタゼ。ああ〜アレは春だったんだね♪

と、ここから話しはワープする、今までは前置き。

今回の場合は、降雪予報が外れて晴天だったから良かったものの、その逆だったらどうなるか!わかるコレ?

そうダンです!危険が危ないのです。サマータイヤを着装した車は突然降りしきる雪に見舞われ立ち往生するならまだしも幸運でブラックアイスでスピンしたり、滑ったり転んだりの大騒動になってしまいますのです。特にスノーシーズンの初め頃の降雪は今までも沢山の悲惨な事故をもたらしました。

それじゃ何故、なにゆえこれほどまでに予報が外れたのか?旨く説明できないがその原因とは、多分、天気予報は過去のデータも利用してその傾向を見ていて、それとここ何年かの温暖化異常気象の傾向との大きなズレが発生して予報精度が時として大きく外れるのではないだろうか、と言うことである。

降雪の場合は「外れた」と確信できる。しかし例えば、風の強さとか向きとか、気温とか湿度などは「外れた」とは実感できない。ともあれ今後、温暖化の異常気象は暫く大きく外した気象予報を人類への警鐘として残すことになるかも知れない。

海に山に、気象予報を信じ切って出掛けたりするととんでもない遭難が待ち受けている、と言うことをイメージしましょう。
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2007年10月27日

巧みは細部に宿る・・・

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秋の祭りに舟を降ろした。島の中央に位置する鵜島神社から神輿が担ぎ出され、港で祝詞を上げた後に「ひな」に載せられて櫓走し島の南端に位置する福島神社に洋上から詣でた。その後、神輿を載せたまま島の南西にある岬を一つかわして小濱から揚陸され、御輿は海端から舟宿「ひな」の敷居を跨いだ。

島の人々は、幾久しく和船に据えられた神輿が、謳い上げる音頭と共に海航するさまを見てはいなかったので、その姿を見て懐かしんだ。秋の一日「海事」は深夜まで続けられ翌日、「ひな」には帆柱が立てられ暫く小春日和のやわらかい陽に晒された。

帆船艤装・・・実はこの春から、まったく悩ましい限りの日々が続いている。愚かにもぼくは、明治時代の帆掛け舟はきわめて単純な仕組みなので、帆桁を艤装することはそれほど難しいことはないだろうと思っていた。

しかしながら、風の力を推進力に替える仕掛けは理解していたが、明治時代の小型帆船を再現するに必要な知識と技は全く持ち合わせてはいなかったのだ。ぼくが知っていると思い込んでいたのは、若いころのセーリング体験から得た知識だけだ。

ヨットの艤装はその技術的な系譜を西洋の帆船の歴史に由来するのだから、それを真似て和船に持ち込んでも原理原則的なところは変わらないけれど、細部では和船と西洋のセールボートとは異なる。船でさえもまた、西と東は出遭うことはないのである。

古くから日本近海を行き来した小型帆船は、千石船とか北前船とかの船大工の集団が伝承してきた洗練された完成度の高い技術とは全く違って、小型の帆船は恐らく、その地方の船大工と漁師との合作であり、経験則で「巧みにこしらえられた帆掛舟」だったのではなかろうか・・・と考えるようになった。

・・・僅か百年足らず前のことなのだけれど、この国の小さな帆船の記憶は殆ど残っていない・・・

例えば、帆柱と帆桁を結束するには幾通りかの方法が有る、しかしどの方法を選ぶのかは、その地域特有の風や船の形や船頭や船大工の好みなどがあり、船それぞれに微妙な違いが有るはずだ。

工業製品化される以前のものづくりを体験してみると、知恵の迷路に放り出されたような途方もない日々を過ごすことになる・・・目の前に帆桁に使う竹がある、この竹一本をとっても切り出す時期が違えば弾力性や強度が違ってくる、なんてこと知らなかったぜ!

ものを作ると言うことは、小さなこと一つ一つがちゃんと出来ていなければならないという教訓をあらためて思い知る。全体は細部から作られて、巧な技はその細部に現れてる。

腕の見せ所とは、素人の解らないところにちりばめられていて、職人は良い仕事をした後なんか、何喰わぬ顔で道具を片付けていたりするものである。だから!ちょっと足りないぼくには「巧」が見えていないのではなかろうか・・・う〜ん、どうしよう・・・

閑話休題

孤島のインターネット装置は秋口に突然変調を来した。ファームウェアにセキュリティーホールが見つかり、子機から親機のファームをリモートでバージョンアップをするという「これぞまさしく離れ業」を敢行して成功させたが、クールダウンしてリセットをしなかった所為かイマイチ調子が悪い。

そうこうしているうちに、アレヨアレヨという間にPCが死んでしまいパニクッて東京へ戻り体勢を立て直した。セキュリティーホールのリポートが遅かったためかも知れない。頼みますよ「猛牛ちゃん」!

加えてどうやらこの猛暑で無線装置の部品が劣化してしまったらしく、涼しくなった彼岸過ぎに完全に死んでしまった、潮風と高温が経年劣化を早めたのだろう。無線装置のご臨終間近の頃は通信速度が極端に遅くなり計測できないほどであった。

なんと、投資額10万円を超すプライベート無線装置が僅か半年しか使えないとしたら、これは切り捨てられた地方を象徴する様な出来事である。ああ、NTTは鵜島にインターネットインフラを未来永劫作らないのだろうか・・・

全体は細部が造り上げるの例え。小さなものごとがちゃんと出来ていないのに全体が出来るわけがない。それと同じで、全国津々浦々の小さな村や町を切り捨てて、この国が国であろうことはない。
posted by さいもん at 00:57| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記